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哲学に飢える夜

手前に朽ちた木と石が転がり、その先にレールが延びる写真。「人生で迷う」というときはだいたい、レールの延びた「先」が途切れている映像がモチーフとして浮かぶだろう。
これは違う。「障害が最初に積み重なり、その先にレールが延びている」写真だ。この障害がなんとかできれば、しばらくはレールに乗って進むことができるはずなのだ。それにはどうやら、だいぶ骨がいるようだが。

哲学書を読んで、最初の数ページで断念したことがないだろうか。
この、まさに最序盤の障害をどうにかできれば、
きっと進みやすいレールがあることが分かっている。
この時代、少し調べれば哲学書の要点を上手く解釈し、理解を支援する情報は多く転がっている。だがそれも最終手段、哲学も自分が理解することが何よりも重要なので、そこまでには障害が伴う。
僕はその障害は、往々にして序盤に存在すると思っている。大体最初の数ページで挫折することが8割であったからだ。そうして結局、障害を乗り越えることが出来ず、トロッコを置くことが出来ないまま、諦める。
無論、哲学も学術領域だ。先人の探究の更に先に立てば、そこにはレールもトロッコもない。ただ自ら問うべき問いの答えを、藪をかき分け沼に足を取られながら、それでも探す旅である。
哲学書として本屋においてあるものは、基本は先人のレールや、そこに乗せるトロッコの役割を担うと思っている。だが、まさにその、レールにトロッコを乗せるまでがひどく難しいのだ。

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「意味の分からないこと」や「考えても仕方のないこと」を指し示す語として、安易に「哲学(的)」を用いることを辞めようと思う。
それはきっと哲学そのものに対する冒涜であると思うからだ。
きっと詩人も、個人的で安易な「感情の吐露」に、「詩的」であったり「ポエム」であったりを安易に用いられることに、大層うんざりしているのだろうと思った。
……すみません。僕は安易に自分の感情の吐露を「ポエム」と呼びました。
これからはそうやって揶揄に「詩」とか「ポエム」を使うのも辞めます。
そうして過去の投稿を「ポエム」として自嘲していた自分を叩きのめす。
そんなものは詩でもなんでもなく、ただ文章力のない人間の、校正の甘い作文でしかない。であるならそのように呼べ。
……noteで編集することは簡単だが、こういうのはインターネットにそのまま残して自らの愚かさに向き合うようにしたほうが良いと思うので、編集はしないようにする。

そういう意味ではこれも大変ふざけた感情の吐露を適当な校正で作文にしたものになる。
言いたいことは結局「安易に自分の理解できないものから『哲学』という言葉を使って安易に逃げるのをやめた」ということに尽きる。
どんなに難しいとしても、それを問うことが自分にとって意味のあることであるなら、「哲学的だなあ」とか適当に言ってごまかさずに向き合え、ということである。

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少し前に、『ウィトゲンシュタイン「哲学探究」という戦い』という本を買って、積んでいた。背表紙がたまたま目に入り、気づいたことを記録することがこの記事の大きな目的だ。

実は、数年前に鬼界訳の『哲学探究』を買い、これまた枕元に積んでいる。
書店で上の本を見かけたとき、良い副読本になるのだろうと思ったのだ。

結局、どちらも開きグセのつかないまま平積みにされているのだが。
それなら手放せば良いとも思う。でもどうしてかそれが出来ない。それをするとひどく後悔するという確信がある。ここにはどうやら自分が問わなければ人生を見失うほどのなにかがあるとすら思う。そんなことはきっとないのだが、手放すのが惜しいを通り越して「怖い」とすら思うのだ。

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大学に入ると、僕のように内省が生きがいで、他人より思考力があると勘違いしている人間は、文系・理系とかいうくだらない線引きを飛び越えて近現代の哲学に飛びつく。
クオリア、哲学的ゾンビ、可能世界、言語ゲーム……。これらはそれぞれ立派に「心の哲学」や「分析哲学」と呼ばれる哲学領域の研究対象である。
僕自身、大学時代はこれらに関してとても興味深く講義する教員に巡り会うことが出来たので、統計学のことを完全無視してこれらの話題に向き合った。この体験はとても良かったと思っている。思い出補正もあるが。
貧乏学生なのに食費を削って岩波文庫の邦訳を買い漁り、数ページ開いて読んでは、その難解な文章構成と複雑・抽象的な概念に心が折れた。今でも『論理哲学論考』は持っている。でも読み進められる気はしない。

おそらく、僕と同じ経験をした人間は少ないながらにいるだろう。
同様に文庫で有名な哲学者の著作を読んではその難解さに心が折れた人がいると思う。
もしかすると少数ながらに、心を強く持って読み切った人もいて、しかもそれをなんとなくでも理解した方もいるかもしれない。
そういう人はここから先は別に読む価値はない。

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先の「『哲学探究』との戦い」は、まさに、分析哲学を専門とした研究者により、『哲学探究』を一般向けにも可能な限り読むことができるように、言いかえれば哲学を専門にしていない人にも、ウィトゲンシュタインの哲学的な思索を歩めるよう、著者自身と一緒に読み進めるようなスタイルで記述されている。
それでも読み切ることは困難なのだろうなと思いこんでいる僕は「はじめに」と「おわりに」を最初に読んで、彼らが問題にする対象に関する哲学は、専門家も、ウィトゲンシュタイン自身にとっても『戦い』なのだというメッセージは受け取ることが出来た。
彼らは「戦っている」。人として在るということについて問い、どこまで答えを出しうるのかについて考える。「論理的思考の伴わない議論」なんてとんでもない。哲学はおそらく最も論理的に考える営為であろう。
「哲学」に触れたという貴重で重要な経験を、ただ「難解」であるという体感だけで「理解」したことにしてしまっていること、そしてその誤解をもって「あなたの議論は『哲学』だ」と、他者を批判・揶揄する言葉として用いてきたことをひどく反省した。
僕は哲学をナメていた。これは人が生きる上で一番必要な思索だ。名刺交換のマナーだの、入社一年目の教養だの、そんなもので本棚を埋める前に戦わなければならない。自らの存在がどれだけ非自明であるかをありありと認識しなければならないのだと思う。

結局「哲学とは何か」に対して、安易に答えを出すつもりはない。
ただ、少なくとも単に「難解」であるだけであるなら、それは「難解なもの」でしかないし、単に「それを考えても仕方がない」と自らが判断するなら、それは「私にとって考えても仕方がないこと」でしかない。
そして、哲学は一人で「ああでもない、こうでもない」と思い悩むことでもないのだろう。それは哲学的に問うべき問いの難しさに打ちひしがれた、心が折れそうなときの音のようなものだと思う。「こんなことを問うている自分がおかしいのではないか」「こんなことよりも考えるべきことがあるのではないか」という音。
そんなものはない。お前はそれを、問うべきときに問うている。
手放せない本であるなら、それに対する何らかの答えを出したいと、どこかで欲しているからなのだろう。そう思うことにして、哲学書を積んでいる。

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大学時代の僕はバイト代が入れば文庫版の哲学書を買った。ハイデガーの『存在と時間』もあったが、友人に譲った。デカルトの『方法序説』は、文章量もそこまでないので、理解ができたかどうかは別として読了した。
カントやキェルケゴールなども図書館で借りた。難しかったが「もう一度」という感覚はあまり湧かなかった。
ウィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』も『哲学探究』も持っているが、読み切れていない。とても難しいと思う。何を問うているのかを理解できているかも怪しい。何度も再スタートしては心が折れた。
どうやら僕にとって、とりわけウィトゲンシュタインの哲学は、ただ難しいわけでも、ただ考えても仕方がないことというわけでもないらしい。読み直そうという気力が湧く程度に、僕の問いたいことに先んじて向き合っていたような気がするのだ。
解説書の著者の言葉遣いが非常に自分に合うから、読んでやろうと思うのかもしれないし、ウィトゲンシュタインの哲学そのものを真に理解したいという気持ちがわずかながらにあるのかもしれない。
あるいは単に「ウィトゲンシュタイン」という名前の響きがかっこいいから、という俗な理由かもしれないし、「ウィトゲンシュタインの哲学に向き合う自分」に酔っているのかもしれない。哲学を真に究めようとする人にとってはなんて敬意のない理由なのだろう。
それでも僕は、多分しばらくウィトゲンシュタインの本は捨てないと思う。読む頻度も少ないんだろうが、年に何度か読んでは挫折するだろう。

そういうことで、僕が理解するべき問いでない事柄、興味のない事柄に対して、適当な「哲学的だね」という揶揄はもう使わないことにする。
素直に「言っている意味がわからない」とか「僕には難しくて、よくわからない」と伝えようと思う。あるいは明確に「興味がない」と言ったほうが良いこともあるだろうし。
眠くなるまで、『哲学探究』を通して戦おう。

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