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小説を読むときの思考についての一考察


「小説が読めない」ということ

私は小説が読めない。読む習慣もない。
「読む習慣がない」というのが鶏か卵か「話題の小説かあ、読んでみよう」と思って読み切れた本は多くない。
ライトノベルであれば「とある」シリーズや『鋼殻のレギオス』に触れたことがあるが、結局アニメ化するとアニメのほうがストーリーを理解しやすかった。
小学校~中学校で読まれる比較的長い小説といえば『ハリー・ポッター』シリーズだと思うのだが、当時は映画化もタイムリーにされていて、それ(あるいは地上波初放送)を見て、そこから書籍版を読むという流れだった(生まれて初めて国語辞典で調べた単語「憤慨」に出会った)。『デルトラ・クエスト』は未履修である。ライトじゃない(?)小説で読破したのは、記憶する限りだと本当に少ない:

こう見ると短編集、あるいは比較的短めの小説が多い。『少年H』は例外だが、これを読んだのは小学6年生で、タイトルから大いなる下心を持って読書感想文の本にしてしまった。

『少年H』は著者の戦争体験をもとにした自伝的な小説(内容すべてが事実とはいえないようだ)であり、下心を持って手に取ったことは今となっては著者やその時代を生きた人たちに対して大変申し訳ない。当時子供だった私はそこまで考えていなかったものの、結果的に読み切れたのだった。

きぬいと(30)によるきぬいと(11)の意識の低さに関する反省

一方で、学術書や新書、評論などは比較的読める部類に入る。読了した数も覚えていない。これらは著者側・読者側双方に、情報伝達の上での一定の前提とルールが共有されているように思われる。これに則る限りは、著者の意図するところを大きく外す形で理解する悲劇はある程度避けられるように思われる。例えば数学書などは研究や仕事、趣味など幅広く影響を受けており、記事にもしたくらいには、読み方を訓練してでも読もうという気力を向けることができる。

この努力は、小説に対しては難しく感じられる。自分が読んで理解したことが、本当に著者が表現したかったことなのかに確信が持てない。「著者が自由に表現した作品なのだから、読者も自由に読んで、自由に感じれば良い」という教育も受けがちだったが、そのように読むと「なるほどね」以上の感慨がこれと言って思い浮かばない。
結果的に、読書感想文という課題の「処理」のために「教師が気に入る表現」とか「大人が感動するエピソード」とかをでっち上げる方に思考が向いてしまい「小説を楽しむ」という方向に脳細胞を活性化できなかった。これは美術や音楽に対しても同様である。
そういった反省もあり、金銭的に余裕ができた頃から、ハインラインの『月は無慈悲な夜の女王』やフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読んだものの、結局読破できていない。結局小説を読むのは未だに苦手なままである。

「なぜ私は小説が読めないのか」という問いは、これ単体では個人的な問題であるから、私なりの答えを持てればよい(後述の通り、これはもしかすると認知科学的な問題にも拡張できる可能性を持っていそうだが)。こういうときには自分では到達できない思考を持つ他者に話を聞くことが有効で、身近な他者であるところの家族に頼ることにする。幸いにして、私と妻は性格も好きな食べ物も考え方も正反対で、好きな本のジャンルも異なる。妻は小説が読めるのである。先日「どんなふうに小説を読んでいるのか」と聞いてみて、妻が小説を読むときの思考回路を垣間見たので、私自身との違いを比較してみた。

「映像イメージ」の想像か「文章そのまま」か

妻いわく「小説にある文章は文章のまま読む」らしい。これを象徴するエピソードとして印象に残っているのは、妻が『ティファニーで朝食を』に出てくる、とあるセリフについて「すごく好きな『表現』なんだ」と言ったことである。「好きなシーン」ではなく「好きなセリフ」でもなく「好きな表現」と彼女が表現したことが重要だと思っている。

これを軸に自分が(苦労しながら)小説を読むときの思考を振り返ると、どうやら「文章から場面、または映像を再構成する」ようである。
「ハリー・ポッター」シリーズやライトノベルが「読めた」のは「ここが映画のこのシーンか」とか「なるほどアニメはこうなるのか」というように「場面や映像との対応」がとれるということが補助的に機能していたのだと思う。他の作品が読めた理由については、やや論理が飛躍するが、アニメやドラマなどから得た「視覚情報の記憶」をうまいこと編集(俗に言う「脳内補完」)しながら、頭の中で場面を勝手に映像化していたのだと思う。私が全く異なるジャンルの小説が読めないのは、記憶にある視覚情報では文章表現を映像化できないからなのかもしれない。

情報科学につま先を付けた程度の私が理解していることの1つに、文字列情報と画像情報、映像情報とを比較した場合、一般的にこの順に情報量が大きくなるということがある。要は、映像より画像、画像より文字列のほうが、必要なメモリの量は少なくて済む。昨今の生成AIの成果でも、機械が文章を受け取って映像や画像を生成するために数百億というパラメータを用いて実現していることを考えると、文章を通した画像・映像の再構成は、数値や文書の要約と比べて計算負荷が大きいことはある程度までは妥当だと思われる。
ただし、実際の人間の脳において、文章を文章として処理することと、文章を画像や映像に再構成して処理することの負荷の差がどの程度あるかは明確ではない。人間の処理機能の一部をコンピュータの処理(あるいは生成モデル)によって説明できていると仮定する範囲で「小説の文章からイメージを再構成する」ことは比較的負荷の高い処理とは言えるだろう。

つまるところ私は小説を読むときに、情報処理の意味で、効率の悪い処理を実行していることになる。妻は非常に効率よく小説を理解しているとも言える。この違いはなぜ生まれるのかについては、世界に問うた方が良い。

同様の議論はすでにある

妻と私に閉じず、どうやら本を読むときに「文章を視覚イメージとして再構成する」人と「文章を文章のまま理解する」人がそれぞれ存在し、議論が起こる様子である。noteには例えば以下のような記事がある。

上記の記事に引用もされているが、Twitter(現X)でも同様の議論は度々交わされているようである。

そしてどうやら何らかの学術領域で、これに関する考察がなされているようだ。

蛇足に蛇足を重ねると、海外でも、Redditで類似の議論が起こっているようで、どうやら世界共通で大きく二分される議論であるらしい。

おわりに:別にどっちでもいい

私がもっていた問いは「なぜ私は小説を読めないのか」であった。
上述の通り様々に議論・研究がなされているので、情報科学や認知科学において、小説の読み方の違い(あるいは拡張して、文字情報の処理プロセスの違い)を検証することによる価値はあるかもしれない。例えば情報量処理の効率を評価することで、今より豊かな表現をする生成AIを少ないパラメータ数で構成できたり、読解プロセスをモデル化することで、語学教育に向けた何らかのヒントになることはあると思う。上述の声優や俳優のPostのように、表現者を職業とする場合には、この違いを意識し、理解することはプロフェッショナルとして重要かもしれない。
ただ、「個人の人生を豊かにする」という目的において、自身がどのように小説を読むのかにおいて、この違いは大きな問題ではないと思う。ましてや「文章を文章のまま理解できる人間が優れている」とか「文章を映像化できる方が知能が高い」とか、そういう優劣を決めるような議論などもってのほかである。昨今の精神的な余裕の無いインターネットとともに生活していると「小説を読む上でどちらがより優れた読み方であるか」という問いを立て、むやみに怒り、対立したくなる人もいるだろうから、あらかじめ書いておく。ここまで読んでそれでもなおどちらかの肩を持って論を戦わせたいのであれば私を巻き込まないでくれ。

少なくとも私は、妻との対話を通じて「もしかすると小説を読むうえでの処理負荷が大きく、疲れてしまうからかもしれない」という仮説が得られた上、妻をまた理解できたので、それを喜び、また意識してまた小説に挑もうと思う。
最近購入した本に白川尚文先生の『ファラオの密室』がある。「文章を文章のまま処理する」というイメージが全く湧いていないので、しばらくは相当疲弊しながら読むことになると思うが、休職で回さなくなった頭を回すために、少し試してみても良いかもしれない。

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