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米津玄師「サンタマリア」

米津さんが宮沢賢治の「春と修羅」が好きだと言っていたのを再度耳にして、思い立ったその勢いで読み直した。米津さんの曲を思い出す言葉があらゆるところに散りばめられていた。その中で、サンタマリアを思い出して泣いた一節があった。

じぶんとそれからたつたひとつのたましひと
完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする
この変態を恋愛といふ

宮沢賢治詩集


たぶんあまり言葉にしてこなかったけれど、僕はこの「サンタマリア」という曲が相当好きだ。
この曲は、米津玄師のメジャーデビュー曲。シングルだがアルバムにも入っている曲で、僕は割と最近その違いを聞き分けられるようになったと感じた。
その違いに気がつけた時、なぜだかまた泣けた。

貴重な、僕にとって「どんな精神状態でも聞ける曲」だ。心の沈み具合で元気な曲が聞けなくなったり、悲しい曲や憂鬱な曲さえも受け付けない時がある。苛立っているときでさえも、この曲なら耳に入れられる。

印象を色で表すのなら、真白。でもその正体は透き通っていて、心がどんな色のときでもすっと入って染み渡る、そんな水や空気のような曲。あるいは、光。

これは、恋愛曲なんだと思う。少なくとも、宮沢賢治の詩集で定義された中で、これは恋愛に相当するのだと感じた。
「恋」というのは、浅ましく相手を求める心だと米津さんは言っていた。「愛」というのは、求めることの逆で自分を捧げるものなのだと思っている。
大した恋愛経験がないのにこんなことを語るのは恥ずかしいことだと自覚しているけれど、でも言いたい。きっと「恋愛」というのは、相手を求め、そして同じだけ自分を捧げる感情のことだ。

あなたを見つめ、あなたに見つめられ。

この曲の「あなたと僕」はきっと両思いなのだろう。お互いに求め、お互いに捧げ合うことができるというのは、幸福なことだ。求めるだけ、捧げるだけでは、報われることはないから。


全て正しいさ
どんな日々も過去も未来も間違いさえも

この限りない最上級の全肯定にどれだけ救われただろう。過去の幸福で今の苦痛を思い知る。今の幸福を噛み締めながら未来の悲哀を見据える。人生の節々に散らばる幸せは、どこかで犯した過ちがあってこそなのかもしれない。そんなことを考える。どれも切り取れるものではなくひとつながりになっているのだろうと、そんな風に感じるのだ。


Lemonをはじめ再生回数億超えが多くある米津さんのMVで、サンタマリアが億に届いていないのが不思議に思えてきた。とりあえず、一回だけでいいから聞いてほしい。



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