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自己啓発

 noteを始めてから丁度一年になる。誰もフォローせず、また誰にもフォローされないまま、一記事あたり千文字を下限に毎週日曜日の投稿を続けてきた。一行空けずに改行する方法は数ヶ月前に学び、フォントを明朝体にできることには数日前に気がついた。キャッチーなタイトルや小見出しをつけたり、もう少し小まめに改行したり、あるいは写真や動画なんかを引用したりすれば、ネット上でのコンテンツとしての訴求力は上がるのかもしれないけれど、僕は紙の媒体における小説やエッセイの文章をイメージして書いてきた。それが一番慣れ親しんできた文章だからである。
 僕はnoteを続けることで、どんなに気の滅入る出来事が日常で起こっても「ネタにしてやろう」と頭の隅で思えた。これは女の子との交際が順調な時に「まあ俺彼女いるし」という心理であらゆる負の感情を矮小化できる状態に近い。と言っても、ハッシュタグを辿って偶然読んでくれる人を除けば、僕のnoteは一部の極近しい友人にしか読まれていない。彼らにしてみても未だに読んでくれているかどうかは甚だ疑わしいものである。ほとんどフィードバックのないまま文章を書き続ける作業は、ランニングや筋トレにも似ていた。どれだけ継続したところで誰にも褒められないし、途中で辞めたところで叱られたりもしない。基本的には自分自身と向き合う作業である。より厳密に言えば、本当に自らのためだけに文章を書きたいのであれば、紙のノートに手書きで日記をつけることもできた。しかし、僕は何事においても醜い承認欲求や浅はかな打算とセットでしか行動を起こせないので、公の場で発信するスタイルを選んだ。ジム通いをSNSでアピールする人間となんら変わらないが、それで続けられるのなら堂々と発信していればいいのである。たとえ皮肉られようとも黙殺されようとも。

 僕は自己啓発本の類を全く読まない。あんなのは途中の計算式もまともに記されていない数学の答案本みたいなものだと、ずっと小馬鹿にしてきた。ごめんなさい。それが答えに辿り着くためのヒントに成り得るのは承知しつつも、僕は意地でも自力で解きたいとムキになる人間である。感情的になっている人間に正論をかざしても無意味なのと同様、自己啓発本というフォーマットで差し出された情報は無条件で目を背けたくなってしまうのだ。また、揚げ足取りのようになるが、他人の書いた文章を読んでいる時点でそれは「自己」啓発とは解釈できない。著者は他人を啓発するという行為で自己を啓発しているのであり、そういった僕の曲解においては、自分を真に啓発してくれるのは自らが書いた文章なのである。つまり、究極的には自己啓発本とは読むものではなくて書くものなのだ。
 とまあ暴論を捏ねくり回したが、食わず嫌いをしているのもどうかと思い、僕はネットで自己啓発本の名著を一通り調べて一冊だけ読んでみたことがある。そこで見つけたのがジェームズ・アレンの『原因と結果の法則』という本だった。とあるレビューには「全ての自己啓発本の原典」とまで言わしめていた。読む前からタイトルだけを見て著者が何を言おうとしているかが大体分かったし、実際に大体その通りだった。主に因果律を軸にした至極真っ当でシンプルな内容で、普通に感心させられた。僕程度の若輩者でも悟れるような人生における真理は、とうの昔にずっと高い次元で体系化されているのだと改めて確認する作業だった。言うまでもなく、単に悟ること自体は実際にそれを行動に反映することより遥かに容易い。食事の管理と運動で体型はコントロールできると誰でも頭では分かっているが、世の中にはダイエットに纏わる本が何千何万と溢れている。そういうものだ。

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 今後しばらくはnoteの更新は不定期となる。極少数にせよ、これまで僕の記事を読んでくれた方々には非常に感謝している。沢山のリアクションはなかったけれど、「誰も読んでいない訳ではない」という意識が大きなモチベーションになった。ありがとうございました。どこか遠くへ旅立つかのような雰囲気が文脈に漂ってしまっているのは、単に僕が感謝や感情を素直に表現するのが不得意だからである。文章を書くのは難しい。

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