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無重力空間へ行くような命懸けの行為

 英語に「ロケット・サイエンスじゃないんだから」という慣用表現がある。「そんなに難しいことじゃないよ」というようなニュアンスで、何かを説明したり誰かを諭す場面なんかで用いられる。ちょっと冗談っぽくその場の緊張を緩和させるような表現で、たしかに宇宙工学の複雑さに比べたら身の回りの大抵のことは単純である。一般人にはそんな途方もない時間と莫大な資金を掛けたプロジェクトと携わる機会はまずないし、無重力空間へ行くような命懸けの行為とも縁がないだろう。もちろん僕にもない。

 それでも、たまにロケット打ち上げのニュースがあると、素人ながらに少し疑問を抱くことがある。多くの場合成功したことが殊更に強調されているため、一か八かのギャンブルかのような印象を受けるのだ。確かに当日の天候など不確定要素はあるだろうし、他にも想定外の技術的な問題が持ち上がるなど一筋縄でいかないことは想像に難くない。ただそれらは初めから計画に全て織り込み済みなはずであり、いわば想定外のことが起こるかもしれないという想定は必ずあるだろう。ゆえに条件が揃わなければ当日に打ち上げを中止する可能性は充分にあり、当事者達はなにも神頼みの出たとこ勝負でロケットをぶっ放している訳では全然ない。そこに一喜一憂はあるにしても、全ては緻密な論理の積み重ねによって成り立っているからだ。
 ゆえに僕の覚える違和感はおそらく報道のされ方にある。「打ち上げに成功しました」という伝え方は、失敗することを世間がある程度想定していたかのようだ。なので「国会の開催に成功しました」とか「花火の打ち上げに成功しました」と表現しないのと同様に、「ロケットを打ち上げました」とだけ報じてほしい。いや、まあそれは別にいいか。

 おそらく僕が腑に落ちないのは、打ち上げること自体が目的というかメインイベントとされている点だろう。花火とは違ってそれはあくまでも過程・手段である。宇宙空間やどこかの惑星の調査だったり、人工衛星だか宇宙ステーションに関連するなんらかの目的がそこには必ずある。お金をばら撒きたい社長もいるかもしれない。なんにせよ変態クラスに頭の良い人間達が集まって考えついた訳の分からない高度な意図がそこにあるはずで、バラエティみたいなニュース番組でミスコン出身の女子アナなんかが嬉々としてロケットの打ち上げを報じていると、僕は何を信じて良いのか分からなくなる。地球が平らだと主張している人達にも親近感が湧いてくる。
 「地球が丸いと断言できるのは、実際に宇宙から地球を見た人間だけである」というのはひとつの哲学ではある。多分、そう信じている人にとっては花火も球体ではなくて平面なのだろう。

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