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他人の言葉を使うとろくなことがない

 小学校低学年くらいの頃、クラスメイトに対して「お前の母ちゃんでべそ」と言って担任の教師に告げ口されたことがある。僕はその友達の母親のことなんて何一つ知らなかったし、ただ単に覚えたばかりの冗談を使ってみたかっただけだった。しかし、相手は気分を害した。担任の教師はそれが型通りの冗談で個人的な悪意がないことが分かったため、呆れながら僕を軽く諭すだけに留まった。そのあっさりとした大人の対応はより一層相手を不快にしたに違いない。それに加え、僕は調子に乗って「大したことなかっただろ?」という態度だった。嫌な子供である。
 同じくらいの時期、テレビで流れていた洋画の中のセリフを親に言ってひどく叱られた記憶がある。詳細は覚えていないが何かしら皮肉の効いた英語的でおしゃれな言い回しを使い、そのまま文字通りに受け取られたのだ。頭ごなしに説教されて僕は情報元を明かすことができず、内心では全く反省せずに「それくらい分かれよ」と失望していた。おそらくそういう時の僕は露骨に不満が表情に出るらしく、「なんだその目は!」と追加でよく怒られたものだ。しかし発言の意図や文脈を上手く説明する能力が子供にあるわけもなく、大人に言いくるめられるのが常だった。それで消化されなかった感情はこんな風にいつまでも記憶に残っている。嫌な大人である。

 自分の考えを言語化する能力をある程度身に付けた今になって顧みると、子供の僕がこれらの経験を通して学んでいった教訓は「他人の言葉を使うとろくなことがない」である。自分で考えていない借り物の「考え」を使うと問題が起きるし、そこには責任が伴っていないので真に反省することもない。反省がないのだから同じような問題はまた持ち上がる。
 これは炎上している誰かに群がって誹謗中傷するような下劣な人間の心理となんら変わりないだろう。彼らは考えないまま言葉を使うことに慣れ過ぎているため、言葉そのものの意味を考えることもできない。最悪のケースで対象の人間が自ら命を絶ったりしても、彼らには当事者意識が無いので「ひどい世の中だ」と嘆いたり悲しんだりさえする。僕はそういう連中を定期的に排水溝を詰まらせるタイプの生ゴミと同列に見做しているが、自分がかつてのクラメイト達なんかから同じような視線を送られていたのかと想像すると生ゴミみたいな気分になる。
 自分で考えたことを適切なタイミングで正確に伝えることは難しい。だから対人のコミュニケーションにおいて、多くの人は不適切なことだけ言わないように気をつけて建前を並べる。そしてその裏でYahooニュースに誤字脱字だらけの感想を書き込んだり、YouTubeのコメント欄で不毛な言い争いをしたりする。あるいはnoteを週一で更新し続ける。

 なんだか何週にもわたって同じようなことを違う切り口でずっと書き続けている気がする。名探偵コナンみたいだ。事件があるところに引き寄せられているのではなく、自分が事件を招いている元凶のような感じがしなくもない。良くない傾向である。
 というわけでジムへの入会を検討している。自宅での筋トレは完全に習慣化しているのだが、ずっと現状維持になっているのでそろそろ変化が必要である。色々なものにあちこち手を出すのも駄目だが、何かを惰性でずっと続けていてもどこにも辿り着けない。別にボディビルダーを目指したり大会へ出場する必要はなくとも、精神的に向上心はあってしかるべきだと夏目漱石も書いている。
 しかし、何事も切り替えるべき時期・タイミングを見極めるのは難しい。最近朝十分の瞑想を始めたのだけど、変な方向に進んでいる気がしなくもない。まあ「迷走している」と書くほど追い詰められてはいないのだけれど。


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