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クレジットカードを拾ったことがある

 書くことがないので「書くことがない」ということについて書く。まず大前提として、生きている限り書くことがない訳がない。それは単に書くことを見つける視点か、あるいは書くという能力そのものの欠落を示しているだけで、この世の中にはトピックが溢れている。怠慢もいい加減にしろという話だ。
 勿論、瞬間的な感情として書くことがないと感じるのは自然である。「百万円落ちてないかなあ」と同じレベルの発想だ。そんな馬鹿げた発想が頭をよぎる人間は、疲れているか混乱しているか馬鹿かいずれか二つの組み合わせかあるいはそれら全てである。勉強に行き詰まった子供が言う「何が分からないか分からない」という状態と同じで、何もわかっていないのだ。

 実は百万円を拾ったことがある。僕は自転車を漕いでいる時に歩道の脇にくしゃくしゃになっている紙幣を一枚見つけ、少し通り過ぎてから引き返してそれを拾い、辺りを窺ってからポケットに入れてその場を離れた。色合いから一万円札だと思った。後になって確かめてみるとそれはおもちゃの紙幣で、端の方に現実離れした数のゼロが並んでおり「百万円」と印刷されていた。僕は一万円を失ったかのような失望を感じ、一瞬でも信じた自分の愚かさに恥入り、すぐさま持ち去った卑しさに落胆し、一念発起して無所属で立候補して市議会議員になり、二年後に政治資金規正法違反の疑いで逮捕され、後にラッパーになって財をなした。まあ後半は嘘だけれど百万円札を拾ったのは本当である。もしあれが有効だったなら、僕はとりあえずミスドでチョコファッションを買っていただろう。

 本物のクレジットカードを拾ったことがある。当時、僕はコロナ禍で厳格なロックダウンが施行されているオーストラリアのメルボルンに住んでいた。働き先をなかなか見つけられないまま口座の残高がほとんどゼロに近付いており、生きる屍のようにただただスーパーマーケットと家を往復する日々を送っていたところだった。
 そんな状況の中、スーパーマーケットへ向かう道の途中でクレジットカードを拾った。僕は神の存在を感じ、本当に切羽詰まった状況では奇跡みたいなことが起こるのだと悟った。ようするにそれくらい追い詰められていたわけだ。そういう特殊な状況下では普段機能していない変な領域の感受性みたいなものが働き、通常なら見落としていたか気にも留めないようなことに、気がつくというか希望を見出すのである。僕はそのカードをスーパーのサービスカウンターへ落とし物として届けた。決して良心からではなく、海外で面倒なトラブルを起こしたくなかっただけである。

 文章を書くようになってから気づいたのだけれど、僕はこの手のランダムな出来事を細部までよく覚えている。記憶力が良いというよりは、過去を頭の中で掘り起こす捜索能力が高いと表現した方がしっくりくる。あるいは適当に脳内補正して色々と脚色・捏造しているのかもしれないけれど、それは書くという行為が大なり小なり要求するプロセスでもある。
 このプロセスを進めるには大量のカフェインと砂糖が必要となる。冒頭の文章を書き始めた時に飲んでいたカフェオレとつまんでいたチョコファッションは、最初のパラグラフを書き終える前に平らげてしまった。


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