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弔いのことばを見つめて

有名人が亡くなったときには多くの人がお悔やみのコメントを寄せる。関係者はもちろん、今の時代ではファンもコメントを発信できる時代だ。
以前記したように人が亡くなったときにはその人の真価が出る。残された側が故人に対して適切なお悔やみができるかどうかは、故人との関係性の深さや愛着に依存するところがある。
先に触れた有名人であれば、出演している作品や手がけたコンテンツに愛情を持っていた人ほど、「弔いのことば」にこもるものもあたたかく、そして深いものになる。

多くの人にさらされる「弔いのことば」がある。
それは、有名人が亡くなった翌日の新聞のコラムである。読売新聞であれば「編集手帳」、朝日新聞であれば「天声人語」、日本経済新聞であれば「春秋」とその名前は様々だ。

2024年3月8日には「ドラゴンボール」や「Dr.スランプ アラレちゃん」で知られるマンガ家の鳥山明さんが亡くなられた。翌9日の新聞のコラムは、いずれも氏に対する「弔いのことば」であった。
個人的には(手前味噌ながら)日経読売のコラムが好みである。毎日はやや淡白な印象であり、産経は余計な提案までしており弔いには蛇足だという印象を持った。
個人的に一番ひどかったのが朝日で、筆者のアラレちゃんへの愛は伝わるものの、いかんせんアラレちゃんが興味を示した「うんち」の話が冗長だ。話もそこそこに鳥山氏の残した偉大なる功績やその人柄の話に移るべきだったように思うし、正直なところがっかりした。

ここまで天声人語にがっかりしたのは、過去の「弔いのことば」の存在にある。2011年5月19日の朝日新聞「天声人語」で、児玉清さんという俳優が亡くなったときのものだ。
児玉さんは「アタック25」というクイズ番組の司会を長らく務めていた。アタック25は回答者が正解するとパネルを青や赤など自分の色に染めることができ、オセロのように挟むと色が自分の色に変わるパネルクイズ番組である。
最終問題は映像をヒントに回答し、正解するとどこかの国への旅行券がもらえるのだが、自分の染めたマスだけ見えるようになるため、最終問題までになるべく多くのマスを自分の色で染める必要がある、というものだ。

件の天声人語は、児玉さんが若いころ、気骨のある話が多かったという切り口から、時を経て我々が慣れ親しんだ穏やかな印象が形成されていったという話が続く。その後、愛娘を自身と同じ胃がんで喪ったことを踏まえて、「半世紀を超す芸能生活が視聴者に等しく残した印象は、控えめだが親しみ深い中間色だろうか。25すべてのマスをベージュで埋めて、まな娘に再開する旅に出た。」という一文で終えられている。
ぜひ全文を読んでもらいたいが、当時実に美しいと感動したものだ。こうした文章に天声人語を通じて出会っていただけに、今回の鳥山さんを弔う言葉には実にがっかりとしてしまった。

もっとも、弔いのことばがどういうものであれ、それは故人の功績をもちろん汚すものでは当然ないし、鳥山さんが残した作品は名作ぞろいである。しかしながら弔いのことばが幾分残念なものであるだけで、故人のことを思うと何とも報われない気持ちになるのだ。
「人の生死がかかった記事には慎重になりすぎるくらい慎重になれ」と記者として教わったが、それは我々がふと発する「弔いのことば」にも通ずる話なのではあるまいか、と思う。

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