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若いころと年を重ねた時とで夢の重みは違う

以前も取り上げた、お世話になっていた先生の話である。
先生に感謝の手紙をお送りしたとき、私は誤って便箋を2枚重ねずに送ってしまったことがあった。目上の人に対する手紙では失礼な行為のひとつだが、その際に先生からの手紙でお叱りを受けたことがあった。
そのとき、「君は記者であるから言っておくが、社会常識を知ってあえて踏み越えるのと、知らずに踏み越えるのとでは大きな違いがある。記者という仕事は社会常識を知りながら、あえて踏み越えることが時には必要な仕事だ」と書いてあった。
すでに物故された先生からいただいた手紙はまだ残っているが、いま読み返しても顔から火が出るほど恥ずかしい失敗だ。おそらくその先生は私がモノを知らないことを見抜いた上でそういったお返事をしてくれたのだろう。

若い時にはわかっていなかったことが、年を重ねるとわかってくる。そのきっかけは年を重ねた人のふるまいから勝手に学ぶことや、指導や指摘を受けて気付かされることなど、さまざまである。

それゆえに、まっとうに教育を受けたり学びを積み重ねたりして年を重ねている人は、通常ならいろんなことを「わかっている」のだ(まあ、本当にわかっていない人もちょっといるけど)。
そして、「わかった」うえでいろんな行動をしている。
逆に若い人の立場から見れば、「多分あの人はわかっている」と判断することが必要となる。それだけに、相手がわかってあえてやっている(またはやっていない)ことがある、と理解できない・しようとしない若者は幼稚に見える。

私自身、若いうちは夢を見るのはひとえに意志の問題であり、夢を見られないというのは意志薄弱であるからだと考えていた。
それだけに夢を見ずきいる人たちをどこかで「もったいないな」と思っていた。

ある程度は正しいとしても、さすがにそれだけで割り切れるほど世の中は単純でもない。子供を家に迎えると、ついつい目の前の生活に追われて高所大所から物事を俯瞰して考えたり、夢を見たり社会貢献をしたりすることが難しくなるのは肌感覚として理解できるし、おそらく子どものみならず、介護なり自分の健康問題なり加齢なり、様々な事情で夢をあきらめる人もいる。若者からの失望の眼差しを浴びてなお、どうにもならない現実が差し迫ってくる。

だからこそ、夢を選ぶ決断をすることの重みが、なんでも勢いに任せて行動できる若い頃といろんなことをわかった人とでは全く異なる。若いうちに夢を見よと大人が言うのはおそらくそのせいだ。

歳月を経た誰かの夢の重みを鑑みず、歳を重ねた人をただただ批判するのは、実は自分自身が物事を「よくわかっていない」と声高に主張しているだけである。そんな幼さを「若くて尖っている」と表現するのは勝手だが、特別な才能でもない限りは、夢から目を離さざるをえなかった大人に比べてよほど魅力のない大人になるのだろうと思う。

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