見出し画像

文句を言うほど嫌な仕事を人はなぜ続けるのだろう

人は合理的に見えて、時に矛盾したことをしはじめる、不思議な生き物である。

例えば、会社で文句を言う人がいる。
でも、なぜかわからないがその人は全然辞めないのである(なんなら、その人に当たり散らされている人が辞めている)。
文句を言ってまでそこに居続けて仕事をするというのは、よくよく考えたら妙な現象でもある。そんなに文句があるならよりよい環境を探すほうが合理的だ。

文句を言う人の周りには、まともな人は集まらないものだ。たとえ集まっても、類は友を呼ぶというように、文句を言う奴らばかりである。生産性のない、あまり意味のないコミュニティが出来上がる。だから文句を言い続ける人と一緒にいるのは、未来に希望のあることではない。

幼年期のころだったか、水泳をやっていてこんな一幕があった。
練習メニューを言われるたびに我々が「えー」などと文句を言っていると、コーチが「いちいち文句を言うんじゃない」と叱ったことがあった。
この後が秀逸で、そのコーチは「君たちは練習の指示を出すと、いつも『えー』とか『やだー』とかいろいろ文句を言う。でも結局数分後には泳いでいるじゃないか。結局やることなのに、なんでわざわざ文句を言うんだ?」と。
それを言われて確かにそれはそうだといたく納得したのである。

なにかをやれ、といわれつづけていると人間は疲れるものだが、何もやることがないとそれはそれで暇になる。
これは余談だが、そうした暇の中で訪れる、耐え難い人生の空虚さが人を死に追いやるのではないかとも思う。自分自身の意味を問うて、そして繰り返される自己否定を経て、結局虚無に至るのだ。

だから、何もせずとも仕事がそこにあるというのは、それなりに幸せなことなのだろう。
本来であれば仕事を自ら見つけに行ったり作りに行ったりしてお金を稼がなくてはならないし、見つけてきた仕事が金になるかどうかは保証されていないのがふつうだからだ。起業した友人を見ていると、特にそのことを痛感する。

仕事が目の前にあって、そしてそれに対して金銭が生じるという、いわば「やればいい」という現状を前にしてもなお文句を言いたくなってしまうのが人間の愚かしいところの一つなのだろう。だれにでも潜むそんな贅沢さを戒める自分がいてもいいのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?