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「袋とじ」がもたらすこころがわかるのが大人である

この間職場で、何の気なしに雑誌の「FRIDAY」の袋とじを開けた。素手で乱暴に開けて、中をみていたその時、「初めて袋とじを開けたのっていつだっけ?」という思いに至った。
記憶をたどると、わたしは「ヤングガンガン」が初めての袋とじだったような気がする。

初めて袋とじを開けるとき、今のように手で無造作に開けたりはしない。
指示通りはさみで丁寧に開けるものだ。

そして、何より特徴的なのは、あのときの異様な精神状態である。
何があるのか分からないという精神の昂揚と、一方に存在するエロティシズムの前に佇む緊張感。
前に進みたいのに前に進ませない何かがそこにある。

しかし、最近では少年誌にも袋とじがつくケースがある。週刊少年マガジンだったか、ハレンチな作品があって袋とじで続きが読めるようになっているらしい。私個人からすると、この「少年誌の袋とじ」というのはどうにもいただけない。

というのも、袋とじは大人のエロティシズムの表象だからだ。
大人の雑誌、せめて青年誌にあるからこそそこに緊張感があるのであって、少年誌にあるのはいかがなものかと思う。あまりにも早すぎる。
これは「5時に夢中」の岩井志麻子女史が言うように「エロティシズムの垣根が下がった」という現象にほかならない。

「公園のエロ本」もこれと同じだ。
小学生の頃(1990年代後半から2000年代前半ごろ)、近くの公園の茂みにエロ本が落ちていたものだ。一人で読む勇気もないから、友達とこそこそと読むことになる。

ものがものだけに、ジャンプのように熱心に読むことはできないわけだが、変な罪悪感や周りから見られてやいないかという不安感から、なかなか熟読するには至らない。ながら読みの極致である。

私が小さい頃にもインターネットは一応あったが通信環境も微妙で、大人の世界を垣間見るのはなかなか難しい。だから公園のエロ本(そして、我が家では父のスポーツ新聞)に目を通して大人の世界を垣間見たわけである。

はて、いまの時代に少年期を謳歌する子供たちにとって、道端のエロ本とはどの程度のスリルがあるのだろう。

いまやインターネットでエッチな画像を探すなんて実に容易なことで、電源をつけてインターネットを開き、ググればそれらしいものが見える。
わずか、3ステップである。
そしてこれはインターネットという「一見」プライベートな空間で展開される。そこには社会的な、パブリックな状態はない。他者の目は存在しない。

換言すれば、いまはプライベートのなかでをエロティシズムを消費することが多く、逆にパブリックにエロティシズムを享受する機会は少ないということだ。

ここまでの話をまとめてみると、
①公園のエロ本を拾うこと(パブリックなエロティシズムの消費)

②ネット上でエッチなものを見ること(プライベートなエロティシズムの消費)
という2つの経験があり、
①の経験をしているひとには「人に見られるかもしれない」状態でのエロティシズムの消費の感覚がわかるということになる。この感覚とは「見たいのに直視できない」という状態であり、すなわち袋とじを開けるときのあの緊張感、すなわち「破りたいのに破れない」という感覚に似ている。

袋とじを前にしてもその感性がないということは、ただ動物的にエロティシズムが消費されるということだ。エロティシズムに緊張感がないのは幼稚である。
ただ本能のままに開けるのなら、エロティシズムを袋に閉じる理由なんてない。

パブリックなエロティシズムの中で、独特の緊張感を味わってこその袋とじの開封なのだ。手に届く場所にあるのに見ることができない、そんな緊張感のなかにエロティシズムを焦らすことが、いわば袋とじの開封の瞬間にはある。それこそが大人のエロティシズムだ。

だから大人には、手のひらにあるエロティシズムがはるか彼方に見える。この矛盾を理解できたとき、男は大人になるのである。

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