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仕事を経て、人の顔は変わるのかも

しわひとつない黒々としたスーツに身を包む若者が、街を闊歩する時期である。
顔つきにはなお大学生のあどけなさが残り、社会人特有の幾ばくかの渋みみたいなものが全く感じられず、その様子を人は「若い」と形容する。

高校1年のころの担任教諭が「中学を卒業して間もないキミたちは実に幼い顔をしている。とりわけ男子は子供の顔をしている」と言われたものだ。
当時はその言葉の意味がよく分からなかったが、時間が経ってその言葉の意味は説明されるでもなく腑に落ちていく。それだけ私も年をとった、ということでもあるのだろう。

社会人1年目のころ、なるべくなら社会で働きたくないと思っていたものである。
就職することはサラリーマンという「鋳型」にはめられることだなどと思って嫌悪していたが、かといって一人で金を稼いで生活する術を持ち合わせているわけでもない。就活でもふらふらとしていたのはそのせいであろうし、結果として思うように内定が出なかったのもそのせいだ。
結局のところ思考回路が実に幼かったのである。

それでも銀行から内定が出たのだから、世の中がそれなりに好況だったのは私にとって救いだったのだろう。もしリーマンショックのような不況が訪れていたら内定は出ないまま、その状態を正当化したまま適当に過ごして、ともすると社会不適合者の烙印でも押されていたのかもしれない。

社会人人生も9年目に突入したが、サラリーマンであることにすっかり慣れてしまった。現実に家庭を持てば大学のころのように「仕事をしたくない」などとたわけたことを言う暇もない。
銀行員時代は仕事に面白みを感じることはさほどなかったけれども、好きなことが多少はできる仕事についたときに、仕事もそんなに悪くないものだと思うようになるのだから実に単純である。何なら今になっては仕事とは人生の重要な要素の一つで、いつしか仕事なしの人生を考えることのほうが難しくなってしまったくらいなのだ。

仕事では大概人とのかかわりが生まれるものである。仕事で上司の指示を受けたり部下を指導したり、顧客とのやり取りをしたりする他者との関わり合いのなかで、自然と自分自身が「矯正」されている面があるのだろうと思う。
一人で自堕落に過ごしたり、現実にある問題に直面したときの相克がないままいればせば顔も緩んでいく。先に述べた子どもと大人の「顔つき」の違いを作るのは、仕事を通じておのずから施す「矯正」のたまものなのかもしれない。

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