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不便になってしまった

月はもはや月そのものとしてみられる機会をすっかり失いつつあるのではないか。月を月そのものとしてみられるのは心の中だけ、誰にも言わずひとりぼっちで月と向き合った時だけだ。ふと見た月が綺麗だったとして、それを隣にいる人やタイムラインに触れさせれば、その瞬間月は告白の象徴としての役割を持ちだしてしまう。

「月が綺麗ですね」

かの有名な夏目漱石が訳したらしいこの言葉。別に本当に告白だろうがそうでなかろうが、そう受け取られようが受け取られなかろうが、そこは大して問題ではない。月が綺麗、という状態に余計な要素が混ざることが問題なんだ。月が綺麗であったという、その純粋な感動と幸せを伝えたいと思った時に、まるで告白みたいになってしまう、という要らない思考が出てくることが、少しでもその可能性という不純物が混じることが嫌だ。

子供の頃は「月が綺麗ですね」なんて言葉が"I love you"の意味を冠するなんて知らなかったし、だからこそまっすぐな気持ちで月が綺麗だということを口にできたはずだ。知らなければよかったことって多分結構ある。でもそれらって多分、うわぁ知りたくないこと知っちゃったよ、みたいな100%ネガティブなものではなくて、ふとした時に、ちょっとこれは知らなくてもよかったかもしれない、と思う程度の事。その時まで気づきもしなかった小さな切り傷みたいな。そのくせ気づいたらずっと気になってしまうもの。

不便になってしまった。言葉にしなくたって月はもうずっと前から綺麗だし、そもそも月なんかに例えられないほどあなたは特別に綺麗なのに。あなたの美しさを月に例えるのも、月を人の美しさを表す尺度にするのも傲慢だ。おかげで月は月そのもののことをまっすぐに見つめられることがずいぶん減ってしまった。そのくせ私が月を綺麗と伝えても、君は何も思わないのだろう。可哀想に。私も月も。月がいつまでも綺麗だといいね。


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