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新年と心機一転のご挨拶

お久しぶりです。
(と、二回連続で言うのは心苦しいのですが)

ちょっと名前を変えました。
相変わらずの神崎です。

新年のご挨拶としては一ヶ月遅れですが、今年もよろしくお願いします。


前回の交換日記はこちら。

……と、紹介したところで彼には悪いのですが、今日は全然関係ない話をします。



[序論]新年の抱負に代えて

年の区切りで何かを考える習慣もあまり無いのですが、折角の機会なので抱負じみた私の野望を並べておこうと思います。

それから、このnoteのコンセプトもいくらか刷新したいと思っています。

今日は「私個人として志すもの」を明らかにした上で、「誰かに何かの利益を与えるツールとしてnoteに書き残すこと」の意味をつらつらと書きます。

これは「正月に暇を持て余した人の戯言」なので、何らかの有用性やハウツーをお求めの方は別の記事へとお進み下さい。


[命題1]私は何がしたいのか

究極的には私がアプローチしたいのは「知性」そのものです。

と言っても唐突すぎるので、その少し手前から話します。


現代のように、
人間の知性機械の知性に対して、どんな優位性を、
 どんな差異を、主張できるのか?」
などと議論されるよりもずっと昔から、
人間は「人間の知性」について論じてきました。

それは
人間の知性動物の知性に対して、どんな優位性を、
 どんな差異を、主張できるのか」
という問題です。


かつて私は、これについて自分なりに一生懸命考えました。

・ヒトは社会性を持つ生物である
   →サルにもアリにも社会性はある

・ヒトは未来を考えることができる
   →リスだって埋めたドングリを掘り出すことはできる

・ヒトは言語を操る生物である
   →鳥の言語を言語でないと断ずるのは人間中心主義ではないか

・ヒトは利他性の価値(つまり愛)を知る生物である
   →お前個人の報酬系の働きを種全体に一般化するな

どんな切り口で考えても、他種生物のもつ「知性」と、質的に異なるものは思いつきませんでした。

もう一つのジレンマは、その「人間だけがもつ特別な知性」のハードルを上げれば上げるほど、「人間でありながら『人間知性』を満たさぬ者」の比率を無視できなくなっていくことでした。

私は、この考え方から撤退することにしました。


おそらく、「ヒトに特有かつ普遍的な知性」など初めから無いのでしょう。

「知性」と一括りに言われるものは、実際には「知的能力の保有量と運用法によって表在化する、連続的な従属変数」だと考えるようになりました。

かといって、「人間は遺伝子の乗り物であって、知性も生存率を高める方策の一つに過ぎず~」といった、あらゆる原因を遺伝的淘汰圧に求める思考放棄な進化論万能説にも、乗っかる気にはなりませんでした。
それに抵抗を覚える程度には、「人間の生存に全く寄与しない生産物」――つまり、「文化」や「芸術」の素晴らしさを知ってしまったからです。


たとえ「首の長さ」が神から授けられた特別な贈り物でないとしても、その首の長さによって結果的に「自分たちにしか届かない果実の美味しさ」を知ることが出来ているのならば、その幸運に感謝すべきでしょう。

この「知性という僥倖」の恩恵に与り、その味を楽しみながら生きること。

これが私の人生のテーマの一つであり、この記事で説明したかった表テーマはここにあります。


[命題2]noteで私は何がしたいのか

ここで話が少し変わります。

首の長い者首の長くない者の間にある「生まれつきの差異」が出生時には誤差程度だとしたら、その長短を分ける要因は何でしょうか。

首の短い者が、今から思考や行動を変えることで、首の長い者たちが味わっている美味を知ることは可能でしょうか?

私の興味はここに移っていきました。


結論から言いますと、私の現在の主眼は次の点に集約されます。

「何が”知性”を構成するのか」
「その”知性”を後天的に伸ばすことは可能なのか」
「それをbiologicalにではなく、memeによって成しうるか」

言語学も、心理学も、哲学も、社会科学も、数学も、自然科学も、工学も、芸術も、旅行も、思索も、そして人間関係も、一つとして怠ってはこの究明は成しえないと考えています。

私の一生でこれが解明されるとは思っていません。

ただ、私は「私が生きている間にこの答えに最も迫る存在」の一つになりたい、というのが私の隠れた願望です。


人間の”知性”には当然ながら上下があり、評価軸も様々に存在します。

知能指数はその一つですし、受験生が身に染みる学力偏差値もそうですし、天才の世界とてノーベル賞を取れる人と取れない人がいるわけです。

ただ、加えて言うならば、私が最もクリティカルだと感じているのは、こうした「評価軸で測られる知性」よりももっとプリミティブな次元です。

それは、「頭脳を働かせるのが楽しいと思えるかどうか」ということ。


スポーツに置き換えれば、
「体育の成績の良し悪しや100m走の速い遅いはあって当然だが、
それ以前に『スポーツを楽しめるかどうか』の分け目はどこにあるか」
という問題です。

18人で野球をすれば「勝利」は9人の手にしか渡りませんが、「楽しむ」ことは、18人全員で分かち合うことも可能であるはずです。

「知を楽しむ知性」はどこから来るのか、
そして、それを「分け与える」ことはできるのか。

これが私の裏のテーマとなりました。


私が知りたいものは「知性の中身と容器」と要約されるかもしれません。

「結果としての知性と原因としての知性」と言っても良いでしょう。

この表テーマと裏テーマを大事にする上で、インターネットが有用な道具として、あるいは有意義な居場所として機能すればと思い、ここにnoteを継続していくことにしました。


[展望]それから

というわけで、これまでは無名的・ゲリラ的に色々なところで遊んでばかりいたわけですが、少し専門的な小話を書き溜めて行く場所を作りたいなと思い立ちました。

そこで。
この交換日記は、ゆるい雑記帳ないしはただの日記やエッセイとして気楽に続けつつ、新たなマガジンを立ち上げます。


専門家の間では常識になっていても、普通のネット検索では辿り着けない知識や日本語化されていない知識は、実はたくさんあります。

そういう知識を、Googleよりも誠実に、Wikipediaよりも明晰にお届けできれば、一定の存在価値があるかなと考えています。

SNSの雑多な情報に飽き飽きした人に、専門家の視点で精選された情報を分かりやすくお届けしたい。
そして、可能ならばその過程で読者の中に、「脳や心に対する科学的な批判精神」が養われるような読み物でありたい。


新マガジン「NeuroNest」
「今までよりもちょっと深くて濃い知識」を目指して。
神崎狛と荒神弥哉で2月開始に向けて鋭意準備中です。

ライター二人の簡単なプロフィールをご紹介しておきます。

【神崎狛】
本を読み、絵を描き、曲を作って遊んで暮らしていたら、いつの間にか「言語と知能を研究する医学者」などという妖怪のような存在になっていた。
多言語、博物館、脳への愛をこじらせ欧州某都市へ留学経験あり。衝動的な知識欲を満たすために突然マニアックな検定や資格を取る悪癖がある。架空生物とオカルトが大好物。ゴーストタイプ。

【荒神弥哉】
認知症研究者。
京都大学で学部から大学院まで過ごし、今年から米国勤務予定。プレゼン好きこじらせて、ネタ作りのため研究をしてる。
他に国際高IQ団体元理事、脳神経内科専門医、潜水士、ライフセーバーなどの顔を持つ。もちろんみずタイプ。


そんなわけで今年もよろしくお願いします。

新しいマガジンが起動するまで、しばしお待ち下さい。

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