【第7章】~苦悩と奮闘~30代奮闘記

23歳で会社に入って総務課2年、特例子会社2年で4年。なかなか出世できず、責任と仕事だけ上位の仕事押し付けられてました。

27歳で突然の経理課への異動。異動も3回目こんな若く異動3回も珍しいよね。まぁ私らしい人生。総務から特例子会社は自分で希望した異動だったけど今回は希望されての異動。上司との衝突もあったから行ったけど、経理課はきつかった。総務でも上司が突然キレる人でしんどかった、初め経理では優しく受け入れてくれて、業務改善もどんどんしていった。引継ぎ事項も全て自分流に変えて業務できるようにしていった。とにかく無駄が嫌いで効率化していった。そのうちあれもこれもと任されていくようになり、気がつくとキャパ以上の仕事をこなしてた。それなのに、まだどんどん仕事増やされたので、効率化して少しでも楽になろうと改善していったが、周りの社員からクレームが入り改善は無効にされた。楽になるのがダメなの?改善はダメなの?変わらないと進歩しないとずっと思ってるので、昨日と同じことするのがいやなんだよね。昨日より今日、今日より明日が一歩でも前に行くようにってのが私の思いだから。残業は罪。無能の証だとさえ思ってる。経理はずっと嫌な部署だった。けど必要とされたのならそれに答えないといけない。必要とされている限り頑張ろうと思った。

けど経理課では伝票処理のため月初めの7日間残業しっぱなし。毎日11時くらいまで仕事して終電間際に帰って12時くらいにご飯食べて、寝て朝6時に起きての繰り返し。過労死に残業時間ってのがよく言われるけど私の残業時間は20時間程度だった。基準値内ではあるんだよね。けど毎月600件~700件の伝票処理をして、それで間違えるなと言われ続け、心がおかしくなっていった。毎日毎日寝れない日々。布団に入っても10分くらいで目が覚める。寝れるようになるのは毎日3時ごろ。で朝仕事に向かい、間違えて怒られる。でまた悩み寝れなくの繰り返し。あれだけ好きだった野球も練習には行くけど行った後行かなきゃよかったという後悔が出る。もう何もかもにつかれてた。

社内の衛生委員もやってた私。ストレスチェックというのを義務化しようという流れになっていて、なら私が先にやってみようとやってみたら、高ストレスと出て、会社お抱えの医者にすぐ見てもらえってなって、医者に診てもらうとすぐ、心療内科を紹介された。で心療内科に行くと「寝れないのが問題だな、好きな事もできないみたいだし」と言われ適応障害という診断が出たがもうほとんどうつだとの事、睡眠導入剤と安定剤もらって仕事したけど不安にかられ、薬飲むけど一向によくならない。女子社員から怒られ、周りからも心配されるように。で障害者の部(所属は障害者の部で経理に常駐という形)の部長に相談して、”経理は本当は嫌だったんです。できれば元に戻してほしい”と懇願。部長からは「経理は前も休職者出して問題やからな。異動するには休まないと」と言われ心療内科から休みが必要だと診断書もらって休職に。12月の年末だった。1ヶ月休みもらったけど、相変わらず寝れない。ずっと不安で寝れない日々。母親から「ずっと休んでるならジムに行き」とジムに行く事に。何かひたすら鍛えてたな。スクワットでバーベル100キロ抱えてたり。障害者やのに異常やって、健常者より重いものもってトレーニングしてた。そのうち段々寝れるようになってきて、復職プログラム受けるようになった。

毎日図書館に行って勉強してた。その時経理の事さっぱりだったから一度経理の勉強をきちんとしてみようと思って経理の本読んでみたけど1ページで無理だった。やっぱり経理は向いてないと思った。で街中を歩くようになった時に気が付いた”みんな笑ってないな。苦悩を抱えて生きてるんだ。自分だけじゃない”と。笑顔が街中にはなかった。それに気が付いた。そこから少しずつ変わったかな。で異動。4回目だね。障害者の課。2度目の異動の時と同じ課。特例子会社見てた時も障害者の課だったんだよね。ここで新しい仕事に取り組んだけど、まぁ同僚が完璧なやつで、耳が聞こえなくて、しゃべらないし、こまかいミスまで見つけて指摘してくる人だった。で仕事振らず自分で完結しちゃうから、手持無沙汰になって、上司に相談したけど解決しなかった。上司よりも仕事できるし、言いようがないと。上司は私より年下だった。年上の部下はもったことあったけど年下の上司は初めてだったな。あの時部下ってこんな気持ちだったんだって感じた。

そのうち仕事も干されていたけど、任された分は完ぺきにやってやろうと思い、やっていた。雑用しかないならその雑用のプロになればいい。完璧に雑用こなしてれば道は開ける。そう思ってる。そうしたら新しい仕事が始まり、その大阪のトップに任命された。正式なリーダーになった。一チームまかされるようになり、日々業務の進捗やメンバー管理、部の週報の作成等こなしつつやってる今日この頃です。なんと部下は2度目の異動の際上司だった人。私に失敗押し付けて転職活動のきっかけを与えた人が今私の部下です。

出世がなかなかできず、名ばかりのリーダーをずっとこなしてたけど休職したり紆余曲折。30歳までに出世できなかったら転職すると決めてました。転職はすぐ決まると思ってたので、今でもたくさん案内は来ます。で30歳で出世して、40歳までに次の段階に行くぞって思ってたら、次の段階は意外とすぐに行けて、もう次は課長ってとこに今います。けど40歳目前。どうなるんだろうね。

野球の方は投手引退してファーストになってましたがチームがなかなか勝てず、20代後半の時にキャプテンに指名されました。それに伴い背番号も10に。馴染みの番号ですね。ユニフォームも変えようと提案し、変更。

グラウンドも毎週練習できるように確保しました。議員さんにお願いしにいったりもしましたね。とにかく強いチームは土台がしっかりしてる。うちは土台がない。土台され作れれば後はどうとでもなるって思ってました。だからあえて嫌われ者になりました。きついことも言いました。チームのために。監督が嫌われたらチームは終わる。だからキャプテンである私がその役を引き受けたんです。私は捨て駒でいい。その覚悟でした。新選組の組織をモデルにしたんです。局長はどっしり構えて副長が全てやる。本当に全てやりました。グラウンドには真っ先に行き、練習の準備も全て整えて、すぐできるようにし、戦術も全て事前に理由までつけて説明し、今のチームの基本を作ったのは紛れもない20代の私です。選手のスカウトもし、HP立ち上げもしました

障害者野球連盟の代表の方にもしっかりして考えてると気に入られてもらい。選手宣誓も任された事もあります。で5年計画で考えたのですが3年目に「お前は分かってない」と言うおっさんが出たのでキャプテン辞めました。いつまでもしがみつくつもりはなかったんでね。で私が改革して5年目。再びチームは予選突破して全国大会に出場するようになったんです。手柄は全部奪われましたけど、私の功績ですよ。忘れられてます。

障害者野球の世界大会WBCがあるんですけど、一度その1次候補(34名)の中に選ばれました。結局代表には選ばれませんでしたけど。ポジションも外野から投手、ファースト、キャッチャー、再びファースト

日の丸背負って野球やるって目標ありましたけど、今チームは独裁の方がいて、この方に嫌気がさしたので私は行かなくなりました。一度引退する、裏方に回るといいながら皆で決めたキャプテンの意向を無視してこうやって仕切りだし、しれっとチームを仕切りだしました。で逆らうものには容赦なく罵声を浴びせ、むちゃくちゃです。その人の命令でキャッチャーやれって言われたから高価なキャッチャー道具自前で用意して、キャッチャーの練習もしたのに、自分がキャッチャーすると言い出し、やっぱりファーストだと変えられました。じじいなんだからひっこんどれって

だから野球が大嫌いになり、コロナの影響もあり、休部という形で辞めてます。この人辞めたら復帰するけどこういう人は引退しないんだよね。権力大好きだからしがみつく。今他所のチームで野球やらせてもらってます。精神障害者の方のチームです。障害者のためになればいいなとチームを作ったそうで、私の理念とも合致してますし、みな楽しくやってます。

これからどうなっていくのか。脳こうそく再発の可能性がずっとあり、30歳まで生きれないと思ってたけどその30歳も越え、40歳を迎えようとしています。30歳からは人生のエクストラステージだと思うようにしていて、そのステージも8年です。長かったな。30代から病院に定期的に通うようになり、健康に気を付けるようになりました。で再発の可能性は一般の人並になったと30代半ばで言われました。とにかくこれ以上は治らないから現状維持していくこと。これ以上悪くならないようにしていくことが大事だと言われてます。夏の暑さが厳しく、脳こうそくの人は体温調整がしにくいので夏の運動は医者としておすすめしないと言われ、それも野球辞めたきっかけですね。どんどん夏の動きが厳しくなり、暑さも増して、しんどかったです。

全盛期は常に未来。最新の自分が最高の自分。昨日より今日、今日より明日一歩でも前にすすんでいるようにを信条として生きている今日この頃。皆が笑って暮らせる世のため、影響を与え続けていきますよ

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