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言葉を綴る、刃物を扱う。

 先日、noteに初めて記事を投稿した。

noteのアカウントを作成し、すぐにでも自己紹介の記事を投稿しようと思っていたのだが、そううまくはいかなかった。時間がなかったわけでも、書く内容が思いつかなかったわけでもない。ただ、自分の記事を公開するのが怖かった。自分が生み出したものが不特定多数の目に触れる可能性を考えると、途端に言葉を綴ることがとても危険な行為に感じられた。何度も聞いた「言葉は刃物」というワードが脳裏をよぎる。レポートの作成で慣れているはずのタイピングをする手が重い。
 自分の書いた文章で人を傷つけてしまうのが怖い。刃物を他人に振りかざしてしまうのが怖い。それと同時に、自分にもその刃物が向けられるのが怖い。文章を公開することは自分を外に晒すということで、それは即ち自分に刃物が向けられる機会が増えるということだと強く実感した。でもこれは今に始まったことではない。生まれて、人と関わり始めてから本当は常に背後に付きまとっていた事実を、文章を不特定多数に公開するという行為を通じて再認識している。

 こんなことを考えた翌日、私は恋人と電話で口喧嘩をした。きっかけはささいなことだったけれど、1年以上交際している中で初めての喧嘩だった。喧嘩から仲直りしようとする過程で、自分の思っていることを正直に伝えてほしいと言われた。自分の思いをどう伝えればこれ以上相手を傷つけずに、そして自分も傷つかなくて済むのかがわからず、しばらく言葉が出なかった。どの言葉をどのように並べるのが正解かわからない。口が重くて開かない。言葉のかわりに出たのは涙だった。
 喧嘩の最中に泣くのは、一方的に相手に罪悪感を植え付けてしまうようで申し訳なかった。それでも出た涙が抑えきれなかったから、仕方なく泣きながら自分の思いを拙い言葉にした。恋人はそれを受け止めてくれた。そして次は私が相手の言葉を受け止めて、そこでやっと私たちの関係が修復に向かう。

 言葉を不特定多数に公開するという体験と、身近な人と喧嘩したと同時に関係を修復するという体験を数日間のうちにして思う。やはり言葉は重くて、怖い。使い方によって人を傷つける可能性も、人に傷つけられる可能性もある。それでも私は生きていく上で人と関わらなければならないし、なにより関わっていたいと思う人たちがいるから、今日も言葉を使って交流する。傷つけたり傷ついたりするのが怖いからといって言葉を呑み込むのは、私にとって簡単なことだけれど、それを積み重ねた先にあるのはきっと希薄になった私だ。他の人の心の中に残らない希薄な私。そのうち、自分自身でも吞み込んだ言葉が何だったのかわからなくなって、私の中で私は迷子になる。
 しっかり私として生きていくために、私は意識して言葉を扱う練習をする。このnoteという場をその第一歩としたい。


 この文章を書くのにも思ったより時間を要しました(本当は週1ペースで投稿しようと思っていたのに!)。まだまだ練習が必要そうです。

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