ドミニク・チェンが語る「千夜千冊とイン ターネットと発酵」〈中編〉

「千夜千冊」にまつわる人々をインタビューし、千夜について、本につ いて、読書について語ってもらう「Senya PEOPLE」。インタビュー第 一号は情報学研究者であり、実業家でもあるドミニク・チェンさんで す。前編では千夜千冊との出会いから研究されてきた分野の話を伺いま した。中編のテーマは「継承すること」です。

▽ドミニク・チェン(Dominick Chen)
1981年、東京生まれ。フランス国籍。博士(東京大学、学際情報学)。 NPO法人コモンスフィア(旧クリエイティブ・コモンズ・ジャパン)理事。 株式会社ディヴィデュアル共同創業者。近著は『電脳のレリギオ』(NTT出 版、2015年)。『インターネットを生命化する~プロクロニズムの思想と実 践』(青土社、2013年)は千夜千冊1577夜に掲載。

( 前編 / 中編 / 後編 )

いまのインターネットは生命的なのか?

――研究者か起業家かという一つの役割だけではないというお話でしたが、 ドミニクさんにも南方熊楠にも共通するのは「オルタナティブ」ということ でしょうか?

ドミニク|「オルタナティブ」はよく考えるキーワードの一つです。いまあ るオプションとは別のオプションを持つということですよね。例えば、ベン チャーを立ち上げることはオルタナティブです。今までにない商品やサービ スを価値として市場に届けている。クリエイティプ・コモンズもオルタナテ ィブなコンセプトです。現行の著作権でもなく、パブリックドメインでもな い、その中間をブリッジする代替案として出てきました。
 インターネットというものに魅了されてきた僕の世代の人間たちにとっては、インターネットの構造そのものがオルタナティブなんだと思います。他の人が作ったウェブページを見ている時に、ページのHTMLソースを閲覧できますよね。それをコピぺして、改編を加えて、自分のバージョンができあがる。こういうお互いにそれぞれが作ったものをいじりあえて作り変えていける構造を僕は「可塑性」と呼んでいるんですが、インターネットは可塑的なんです。
 これはインターネット以前にはできなかったことです。本を書くなどして、社会の上層から投下しないと自分の意見や思想を広められなかった。でもいまでは、個々のユーザーが発言できるだけではなく、発言をするためのツール自体を自分たちで作ることもできる。どんなオプションも生み出せる。こういうオルタナティブ性というのはインターネットにおける本質なんだと思います。そのことがインターネットを生命的、つまり新陳代謝が活発な状態にする根幹部分だと思っています。

――ご著書の『インターネットを生命化する』を書かれた時に比べて、いま のインターネットは十分に生命的なのでしょうか?

ドミニク|いまはある程度の安定期に入ってきているように思います。大企業のプレゼンスが高いですよね。この状況は、Facebook、Twitter、LINE以外にツールが無いという意識を、日本だと特に若い人たちに浸透してしまっていると思っています。そうなれば、インターネットというのはプログラミングをせずにスマホでアクセスするものとして使ってしまいます。これはかなり残念に思いますね。そこに対して何かできることがあるんじゃないかと思っています。
 特にいま一番足りないと思っているのは、「アウトプット」です。千夜千冊の中でも松岡さんが書いてくださっていますが、近著の『電脳のレリギオ』の中で「読むことは書くことである」ということを書きました。まさに松岡さんの千夜千冊自体が「読むことは書くことである」ということを体現しているんだと思うんですが、この両者は表裏一体です。なのに、インプットとアウトプットの比率が圧倒的に非対称で、受け取る人の方が多くて、アウトプットが少なすぎます。このアンバランスを解消することに、技術を使う人間側の生命的な特性を引き出すことがかかっていると思います。

ドミニク|そもそもインターネットに限らず情報を獲得するプロセスを見てみると明らかです。このプロセスは食べ物を食べる行為と似ています。キャッチボールのようにボールを受け取って、頭の中にインストールするものではなくて、栄養と同じように情報は摂取するものです。Aというメッセージを投げたら、受け手次第でA'にもA"にもなる。情報は摂取すると同時に、受け手独自の摂取や解釈をしているわけです。キャッチボールのボールは別のものに変化しませんが、摂取した栄養はエネルギーにも排泄物にも変化します。そうして血肉化が起こる。、まさに「読みながら書いている」わけですよね。摂取をしているプロセスの中で実は自分の身体や意識で書き換えをしているんです。だから摂取の段階ですでに、自分の表現の萌芽が起こっている。そうして書き換えたものが外に顕在化されて初めてコミュニケーションというのが成立しているんだと思います。

――松岡は編集工学でコミュニケーションのプロセスを「エディテイング・ モデルの交換」と呼んでいます。ドミニクさんがまさにおっしゃったよう に、情報を単純に交換しているのではなく、解釈した編集プロセスをお互い に交換しているという考え方です。それがきっと会話のような「場」の中で は起きていても、インターネットになった瞬間、それが機能しないコミュニ ケーションになってしまっているのかもしれないですね。

ドミニク|そうですね。今のインターネットの問題点というのは、あたかも情報というものがファストフードのように、あまり噛まなくてもゴクリと飲み込んで簡単に美味しいと思えるものになってしまっていることです。本当はそこに「解釈」という一種の摩擦抵抗が生じているはずで、そこからコミュニケーションが発生するはずなのに、今の主流なインターネットではそれが起きていないんです。

ドミニク|今はもうインターネットも旧来のメディアのようにブロードキャ ストして、みんながいかに簡単に受け止められるか、という構造に陥ってし まっていると思います。これは非常に残念なことです。インターネットの可 能性が十分に発現されていないんじゃないかと思っています。その一番の弊 害が表れたのが今回のアメリカの大統領選だと思います。たとえば、SNSで 虚偽のニュースを見抜けないFacebookの構造だったり、デマが拡散される Twitterの構造だったり、様々な形で問題が表出しました。だからといって悲 観しているというよりも、そこに向かってオルタナティブをこれからいろい ろ作っていけるんじゃないかと思っています。逆にやれることはたくさんあ ると、いまは気合が入っている状態なんです(笑)。

文系と理系が断絶しない学習へ

――いまのインターネットのシステム自体に欠陥が見え始めているのかもし れません。

ドミニク|そうですね。その結果、インターネットが生命システムとしても歪(いびつ)な構造になってしまっているんだと思います。自律機関が極端に少なかったり、多様な構成要素が併存できないようなものになっているのがその現れです。生命の場合は細胞1つを見てみても、中に「ミトコンドリア」という変なやつが居候していたり、量子力学的な機構が細胞の遺伝子の変化に影響を及ぼしているという先端科学の研究があったり、非常に複雑なものです。そうした複雑な要素の連関というものが、少なくともインターネット社会の表面では失われているように見えますね。

ドミニク|アメリカの大統領選でも、右と左に分かれて合意できる点が無い と、一気に右になったり、一気に左になったりする。振れ幅の反動が大きく なりすぎています。お互いがお互いにとって癌細胞になってしまっている状 態です。お互いは異質同士であっても、全体としてそれぞれが活性化できる ようにする必要があります。いまのインターネットは活性化をせずに、どち らかを不活性にする動きばかりですよね。それはシステム論としても進化で きていないし、危ない状態なんです。
 この危うさを実感したのは、UCLAの学部生の時です。僕はリベラルアーツに属するアーツ・アンド・アーキテクチャという学部にいたんですが、イラク戦争が開戦したときに、リベラルアーツ系の予算が大幅に削減されたんです。一方で、兵器に転用できるような理工系に予算が回った。UCLAの学長も学生も一緒にストをするような事態になったんです。僕の友人も警察に捕まるようなことがありました。
 その分断は国外の戦争を巡るものでしたが、いまのアメリカは国内の人種や政治思想の間での分断が、マスメディアよりもリーチが強くなったSNSのフィルターバブルによって加速されている。社会が複雑さを許容できずに単純化する方向に向かっていてインターネットがそれを助長してしまっているとしたら、悲嘆している場合ではなく、まさにそのオルタナティブをこそ作り始めないといけないですね。そのためにはやはり複雑な社会現象と根気よく向き合う人文知を実証的な工学的方法論と接続する必要があります。

――日本の大学でも人文系の予算がカットされ始めていますね。

ドミニク|結局理系だけの教育に偏ろうとしているわけですよね。文系は不要なものとして切り落とされているのが事実です。そうなってくると、人間の非合理な部分であったり、科学のボキャブラリーでは説明できない現象を把握する方法を失うわけですよね。それはとても危険なことだと思います。
 フランスの高校教育でも同様のことが昔からありました。僕が通っていた時代のフランスの高校ではコースが3つに分かれていました。そしてヒエラルキーも明確でした。理系がトップで、次が文系、一番下が経済系なんです。高校1年の時点でこの区分をとても意識させられるんです。僕自身は理系でしたが、友人の中には仕方なく文系に行ったり、経済系に行ったりして、そこですでに一種の分断が起こるんです。それがとても気持ち悪かったですね。でも結局僕が一番熱中した授業は哲学と芸術だったんですが、その2つとも高校卒業時のパカロレアの試験では一番配点が少ないんですよ。

ドミニク|数学にせよ、科学や芸術によせ、ツールでしかないんですよね。何かをしたいときの方法でしかない。それよりも、今自分が何をしたいのか、というのを考えた方が持続的だろうと。その上で、その時々で最適だと思うものを選べばいい。大学に入学した時点で何がしたいかなんて分からないですよね。でも、大学の間に多様な知識の海の中で溺れてみたり、もがきながら泳いでみたりすることで、自分のやりたいことが見つかっていくんだと思います。

――日本の大学生は就活に追われてしまいますね。

ドミニク|僕は経験がないのですが、傍から見ていて、とても息苦しそうに感じます。今後はもう少し時間をもって、何をどうしたいか、というのを深掘りするのが教育の中で重要になってくると思います。
 僕自身も死ぬまで学習していくんだと思いますし、コミュニケーションは すべて学習だと思っています。こうやってお話している間にも僕自身の学習 は進んでいますし、システム論で見ても双方で学習が起きていたほうがいい 関係性です。 僕自身も死ぬまで学習していくんだと思いますし、コミュニケーションはすべて学習だと思っています。こうやってお話している間にも僕自身の学習は進んでいますし、システム論的に見ても、双方のシステムで学習が起きていたほうがいい関係性なんです。
 「教育という概念は学習という言葉で置き換えたほうがいい」と昔から言ってい るのはMITメディアラボの伊藤穣ーさんです。トップダウンで何かを投げて それを学生側で受け止めて勉強するのではなく、どうやったら個々の学生や 集団としての学校がいきいきと学習できるかだと思います。そのプラットフ ォームを生み出すのが今世紀の教育者の役割なんじゃないかと思っていま す。それは翻って考えると、人々がわいわいコミュニケーションを起こすウ ェブ上のプラットフォームだったり、千夜千冊のようなウェブサイトをつくるということも実は同じ視点で見ることができるんじゃないかと思います。こういったインターネットの場でも明らかに学習のプロセスは起こっています。僕の中では、それは大学や学校というかたちじゃなくても、場を作ることに学習の本質があるんだと思っています。それが僕自身のテーマでもあります。

「モンゴルの馬」と贈与

――『インターネットを生命化する』の中でも書かれていた「継承性 (Generativity)」とも関係しますね。

Generativity(ジェネラティビティ) :「次世代の価値を生み出す行 為に積極的にかかわって行くこと」を意味することば。 エリクソン (E.H.Erikson 1902~1994)がつくった精神分析学上の造語。

ドミニク|Generativityに関しては2つ衝撃を受けた事例があるんです。1つ目はモンゴルでの出来事です。数年前にモンゴルに一週間、馬に乗りに行ったんです。僕は実は根っからのゲーム好きで、コーエーから出ている『チンギス・ハーン」っていうシリーズが大好きなんですが、そのゲームはチンギス・ハーンの時代にチンギス・ハーンにもなれるし、北条家にもなれるし、フランスの君主にもなれるというものです。チンギス・ハーンを使えばモンゴルの騎馬隊を使えて、めちゃくちゃ強いんですよ(笑)。

――ドミニクさんにそんな一面があったんですね!

ドミニク|それをやっていると馬に乗りたくなってしまって、モンゴルに行くことにしたんです。ウランバートルから500キロくらい離れた何もない草原の遊牧民の家に泊めてもらって、一週間馬に乗り続けました。最後の日に現地の人に「お使いを頼まれてくれる?」と言われて、牛追いをやってほしいと言われたんです。百頭くらいの牛を4時間くらい馬で追っかけました。すごく大変だったんですが「終わったよ」と言うと、「お前たちのことを気に入った」と言ってくれて、贈り物をくれたんです。それで、牧場に連れて行かれて言われたのが「この馬を1頭やる」だったんですよ。白いきれいな馬だったんですが「明日東京に帰るから持って帰れないですよ」と正直に伝えたんです。そうすると「そういう意味じゃない」と笑われました(笑)。彼が言うには、この馬をずっとこの家で面倒見ておくから、お前たちがモンゴルに来たらいつでも使っていいよっていうことだったんです。これって、もののもらい方やプレゼントのされ方として今までに無い経験だったんでとても驚いてしまいました。 加えて、モンゴルの人っていわゆる我々のような近代西洋合理主義に慣れ親しんでいる人間からすると、全く違う感覚を持っています。なかでも、「所有する」という考え方が非常に希薄というか、我々と異なるなんです。聞いたところによると、モンゴルでは、土地を所有するという概念が90年代にソ連が崩壊するまで、国民の中でほとんど根付いて無くて、その時の政府が国民に土地をばらまいたそうなんですよ。早く定住してくれと。定住しないと国として管理できないからですよね。しかし、土地をもらっても「ゲル」と呼ばれているテントを立てて、暮らしているわけです。
 ものを所有したり人にものをあげるということが我々が考えている感覚とは随分違うんですね。さっきの馬の話は、言ってみると、「時間軸をプレゼントされた」ということだったんだと感じました。私たちが常識だと思っている近代的な価値観を相対化させられる、とてもいい機会になりました。

――「贈与する」という意味が日本や西洋でいう考え方と全く違ったんですね。

ドミニク|継承性について2つ目に衝撃を受けたのは、能の謡の稽古をこの 6月からやっていて学んだことです。いま 能楽師の安田登さん(1176夜)の私塾に通っ ているんですが、そこでいろんな面白いお話を毎回聞かせていただいている んです。

 そこで一番衝撃的だったのが、鼓(つづみ)の話です。能楽師の方が40代、50代になるころに鼓を一つ買うそうですが、まず、めちゃくちゃ高いんですね。200万円とか300万円するんですが、最初は全く音が出ないそうなんです。「どれくらい叩いていると音が鳴るんですか?」と聞くと、30年は音が出ないそうなんです。そうなると60歳を過ぎますよね。でも、それでもまだ「いい音」は出ないそうなんです。「いい音っていつ出るんですか?」と尋ねると、さらに数十年かかるんだそうです。そうなると、鼓を新しく買うという行為は、もはや自分の時間軸を超えているんですね。「いつか誰かに渡すもの」として買うことになるんです。その感覚って現代人が忘れてしまったものなんじゃないかと思ったんです。

 何かに似てるなと思ったのは、自分の子どもの存在なんです。子どもができて感覚がすごく変わったと思ったんですが、プライオリティが自分自身のタイムラインから、次にリレーを渡すタイムラインにフォーカスが移った感覚と似ていました。そうなるとすごく自由になれる気がして、自分というものがすごく拡張された気がしたんです。『インターネットを生命化する』の中で、Generativityについて書いたのも、子どもができたからなんです。もちろん、それは子どもを持つという遺伝子(Gene)の世界だけじゃなくて、文化遺伝子=模倣子である「ミーム(Meme)」の世界でもそれは起こっていると思ったんです。

 さらに本を1冊書いてみて、色んな人に読まれて反応をもらうと、自分のタイムラインを拡張してもらえた気がしました。知覚ではなくミームの拡張現実ですね。それは自分の考え方を共有できたからではなくて、受け手独自の解釈が起きているときに拡張された気がするんですね。

 ( 前編 / 中編 / 後編 )

¶ 関連する千夜千冊
1577夜『インターネットを生命化する』ドミニク・チェン
0903夜『メディアの理論』フレッド・イングリス
1499夜『生命の跳躍』ニック・レーン
1542夜『借りの哲学』ナタリー・サルトゥー=ラジュ
1507夜『贈与論』マルセル・モース
0647夜『ミームマシンとしての私』ブラックモア
1252夜『守破離の思想』藤原稜三
1604夜『勝手に選別される世界』
     マイケル・ファーティック+デビッド・トンプソン
1176夜『ワキから見る能世界』安田登

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インタビュー・文:宮崎慎也
写真:長津孝輔
場所:編集工学研究所 本楼
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■カテゴリー:インタビュー

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