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短編小説 猫を狩る1/7

登場人物と猫

谷村郁子 34歳の専業主婦 
谷村裕二 郁子の夫。趣味は世界の王室の家系図作り。
谷村花梨 郁子と裕二の娘。小学校1年生
ねね 谷村家の猫 

小田由香里 郁子と同じマンションに住む専業主婦
小田桃実 由香里の娘。小学校1年生

岸田   郁子と同じマンションに住む主婦。第二子妊娠中。

早紀   ファミリーレストランでパートをしながら、店長のなおくんとの不倫ブログを書いている

ゆりママ 不倫が嫌いな、不倫ブログウォッチャー。料理や手芸をトピックとしたゆりママブログを書いている。

坂本   花梨の小学校の友達の母親
坂本真奈 花梨の小学校の友達

「ねえママ、ねねちゃんはどうして手術を受けなきゃならないの?」
 郁子は花梨の小さな手を握りなおし、小さくため息をついた。花梨がねねの手術のことを聞くのは、今日だけでももう五回目になる。
「だって、ねねちゃんがたくさん子猫を生んじゃったら飼えないでしょ。放っておくと猫はどんどん赤ちゃんを産むんだよ」
「子猫可愛いもん。また欲しい人にあげればいいよ」
「もう欲しい人なんかいないよ。うちのご近所はみんな猫嫌いだから」
これ以上猫を増やしたら、口を利いてもらえないどころか、脅迫状が届くのではないかと思う。
「ねねちゃんが赤ちゃんを産めなくなっちゃうなんて、可哀想だよ。ね、お願い。ねねちゃんの手術、やめにしてあげて」
何度説明しても花梨が言うことは同じだ。餌代がかかって大変だというと、花梨がお年玉貯金から払うと言い、うちが猫だらけになっちゃうよ、というと花梨が全部の子猫を花梨の部屋で段ボールに入れて飼うと言う。困ったことに花梨の足では学校間で四十分も掛かるのだ。学校にたどり着く前にこれを何回繰り返すのかと思うと、うんざりしてしまう。
 親の欲目を差し引いても、花梨は本当に可愛い。小作りな顔にぱっちりとした涼しげな目元が印象的で、短い髪と男の子のような格好がかえってその可愛らしさを引き立てている。
 ねねちゃんには、大好きなキャットフードをたくさん買っておいてあげるからね、となんとか花梨を丸め込んで、校門のところで別れた。帰り道はひとりなので、二十五分ほどで歩けるとはいえ、真夏とかわらない暑さの中を一時間歩くのは辛い。お迎えもあわせると郁子は、毎日二時間を娘の花梨の送り迎えに費やしていることになる。
 家に着いて、冷たい水をコップに注いで一気に飲むと、郁子はパソコンのスイッチを入れた。朝の日課の早紀ちゃんブログのチェックだ。早紀は、郁子よりひとつ年下の三十二歳の人妻で、花梨と同い歳の小学校の一年生の男の子の母親で、子供が学校に行っている間はファミレスでバイトをしている。そのファミレスの店長である年下の男とつき合っていて、不倫の内容を赤裸々にブログに書き連ねているのだ。
 
<昨日はなおくんがお休みの日だったので、ドライブに行ったの。楽しかったぁ。なおくんったら、デートしてても入った店の従業員の態度とかメニューがやたら気になるみたいで、なんだか落ち着かないなあ。でもずっと行ってみたかったラブホに行けて満足。そこは、昼間は四時間までオッケーで、もうふたりともへとへとになるまでしちゃいました。疲れたので夕食はスーパーのお惣菜。もちろん昨日も休みではなくバイトに行っていることになってまーす。>
 
 ああ、またくだらないものを見てしまった、と思って力が抜ける。早紀は友達でも知り合いでもない。ブログというものがある限り、匿名の他人の私生活はいくらでも覗き見できる。子供のいじめ、ママ友同士のいさかい、ペットの飼い方など、一時期はいろいろなブログをはしごして見ていたが、最近は面倒になってチェックするブログの数をかなり減らした。不倫ブログにもいい加減飽きてきたけど、惰性でつい見てしまうのだ。それから大手掲示板サイトの不倫ブログウォッチのスレッドを見る。新しい書き込みがかなり増えている。
 
<うわー、今日の早紀たんサカリついてるね。だんなカワイソすぎる>
 
<体位まで詳しく書いてなくて残念>
 
<なおくん、キモすぎ。ねーねー、どこのファミレスか特定できた人いる?>
 
<四時間もやりっぱなしじゃ、一通り全部でしょ。国道沿いで病院の近くでしょ。もっと詳しい情報希望>
 
<早紀たんのダンナって何してんの?>
 
<ファミレスで働いていないことだけは確か>
 
 郁子が不倫ブログウォッチするネット掲示板を覗き始めたのは、花梨が小学校に上がる少し前のことだった。近所の主婦との人間関係に悩んでいたので、同じような悩みを持っている人はいないかと大手の匿名掲示板を見始めたのがきっかけだった。あちこちの板を見ているうちになんとなく辿りついて、以来ずっと見続けている。
 仕組みは簡単だ。誰かが鼻持ちならないと思うような不倫ブログをどこからか探してきてURLを晒す。それをネタに叩いて盛り上がるというだけのことだ。世の中には夫や子供のことを考えずに、男を作って遊びまわる人妻が少なからず存在するのだ。そしてそれをブログで公開して楽しんでいる。許せないというほど頭にくるわけではないが、やはり世間から何らかの制裁を受けてしかるべきだと思う。
 最初のうちは見ているだけだったが、やはり腹が立つので書き込みをするようになった。早紀にしろ、他の不倫妻にしろ、そういうブログを書き綴って公開しているというだけで、世の中の主婦すべてが変な目で見られてしまうように思えてくる。
 コメントを書き込んだあとに、それに同調する書き込みが続くと気分がいい。顔も知らない他人とはいえ、賛同者というものはいいものだ。近所の主婦との人間関係で失敗をして相談できる人が回りにいなかったので、掲示板に書き込みをすることだけが楽しみになった。ブログの持ち主に対してあからさまな中傷を書けば書くほど、同意するコメントが増え、ネットの向こうに、友達がたくさんいるような錯覚を起こしそうになる。相手の顔が見えなくても、井戸端会議で誰かの悪口を言って盛り上がるのと同じだった。
新しい書き込みのひとつにURLが貼り付けられていた。掲示板で派手にやるとサキにばれてしまうので、議論はこちらの個人ブログでやった方がよいのでは、というコメントのが添えられている。こういうアドレスをうかつにクリックしてしまうと、PCがウイルスに感染したり、アダルトサイトに誘導されることも多いけれど、その書き込みが、この掲示板でずっと親しくコメントをやりとりしている女性の癖のある文章だったのと、大手のポータルサイト上のブログのアドレスだったので、クリックしてみることにした。あたらしい画面が開き、「ゆりママ日記」というタイトルとともに、ピンクが基調の、夕食のおかずや、手作りの手提げバッグの写真が沢山載せられた、いかにも若い主婦っぽいブログが浮かび上がる。そういうのが好きな人が不倫ブログを憎む気持ちはよくわかる。ゆりママとはおそらく掲示板で毎日のように言葉を交わしているのだろうし、こういう人となら、仲良く出来そうな気がしたけど、不倫ブログウォッチがきっかけで友達づくりなんて、やっぱり後ろめたい。郁子はゆりママブログにはコメントを残さずに、ブラウザを閉じた。

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