見出し画像

短編小説 猫を狩る6/7

前回のお話

最初から読む

6 
 土曜日に真奈ちゃんを迎えに行って、坂本さんと少し話をした。
「ああ、散らかってるけど、お茶でも飲んでいかない?」
 という言葉に甘えて、家の中へ入ったら、謙遜ではなく本当に散らかり放題の家だった。でも生活感があって、かえって落ち着く。
 坂本家では猫はほとんど放し飼いにしているけど、誰も苦情を言いに来たことはないようだ。坂本さんによると、郁子の家の近くには比較的大きな精密機械の工場がいくつかあって、併設された研究所の研究職の人はほとんど郁子の住んでいるマンションに住んでいるらしい。だから、あの辺には似非インテリでいけ好かない人が多いのよ、と坂本さんは言った。小学校のことはよくわからないけど、確かに学区内の中学は、全国でもかなりレベルの高い学校だという話は聞いたことがある。
「それにしてもたかだか猫のことで、子供にさかりついてるとか言っちゃう親ってなによ。人間としてレベル低すぎ。言いがかりもいいところだよね。学力高くてもそんな学校に入れなくて本当によかったね」
 坂本さんは頬を紅潮させてまくし立てる。郁子は、自分が間違ったことをしていないということを人に言ってもらって肩の荷が下りるような気がした。
「嫌な世の中になったよね。みんながみんな憂さ晴らしの対象を探してるっていうか。また嫌なことがあったらなんでも話してね。そんな力にはなれないかもしれないけど」
 
 もっと話をしたいと思ったけど、花梨がせっつくので、郁子は花梨と真奈を連れて坂本家を後にした。
 花梨と真奈がラジオコントロールの車で仲良く遊んでいるのを横目で見ながら、郁子は、早紀のブログと、不倫ブログウォッチ板と、ゆりママのブログをチェックした。動く車をねねが追いかけてじゃれるのが可愛いので、ふたりは夢中になって遊んでいる。
 
 ゆりママのブログでは、早紀を狩るオフ会のことがかなり詳細に書かれていた。来週の火曜日のディズニーランドの閉園時間の少し前に、オークラのロビーに集合して、早紀となおくんらしき宿泊客をウォッチしたあと、オークラに部屋を取って朝まで盛り上がるというところまで計画が進んでいる。何人かずつに分かれてエレベーターを使えば、宿泊者の人数まではばれないらしい。参加希望者はすでに五人集まっていて、定員は七人。希望者はゆりママにメール。
 
 結婚してからというもの、友達と泊りがけで遊びに行ったことなんて一度もない。毎日二時間もかけて花梨の送り迎えをして、顔を見ることもない裕二のために食事を作る生活をしているのだ。その上近所には口を利いてくれる人もいない。一度ぐらいネットのオフ会に参加してもばちはあたらないだろうと思う。でも花梨を預かってくれる人がいない。郁子の母も、裕二の母も地方に住んでいる。そうだ。坂本さんに頼めばいいのか。坂本さんの家からだったら学校も近いから、真奈ちゃんと一緒に歩いていけばいい。でも一度ちょっと話をしただけの間柄なのにそんなことを頼むのはずうずうしいような気がする。でも、ああいう大らかな感じの人だったら、そんなことは気にしないだろうか。
 
 裕二にはなんと言おうか。友達と会う。嘘ではない。会ったことはないけどゆりママとは友達と言えなくもない。どうせ、遅く帰ってくるか、帰ってこないのだ。だからといって何も言わずに外泊するわけにはいかない。でも前もって言っておくのは、浮気相手と会うチャンスを与えることになって、それは癪にさわる。そうか、書置きをしていけばいいんだ。そんなことを考えているうちにすっかりオフ会に参加する気になってきた。
 

 ホテルオークラに着いたのは、九時二十分ごろだった。一階にはフロントと小さな売店があるだけで、ロビーには誰もいなかった。ディズニーランドは今パレードの最中で、泊り客が戻ってくるのは閉園時間の十時を過ぎてからなのだろう。
 花梨は、真奈のところにお泊りというだけで、朝からはしゃいでいた。坂本さんの家まで車で行って、花梨が学校から帰ってくるのを待ち、後のことを坂本さんに頼んで家に帰った。坂本さんには、高校のときの同窓会があると嘘をついて花梨を預かってもらうことにした。思ったとおり、ざっくばらんな人で、
「この前も真奈がお世話になったし、私にも何かあったらよろしくね。私ね、テニスをやっているんだけど、やっぱり子供がいるし、ダンナも帰りが遅いから、飲み会に出たことがないのよ。でも今度の飲み会のときは頼んじゃおうかな」
 と言って、屈託なく笑った。
 
 万が一、裕二が早く帰ってくると、家を出にくいので六時ごろに家を出た。こんな時間にひとりで都内に出るなんて、本当に久しぶりだった。カフェでコーヒーを飲んで、秋物の服を見て回り、九時少し前に地下鉄に乗った。
 ゆりママとはオフ会の件で、何度かメールを交換した。郁子もゆりママも早紀のような、自分勝手な人妻というのがどうしても許せないらしい。たとえ自分とは関係なくても、それが回りまわってまともに生きている人間が迷惑をこうむるのだというようなメールを何度かもらった。
 
 ソファに座って、オフ会のメンバーを待っていると、赤っぽく染めた髪に、濃いピンクのキャミソールワンピース姿の女性がひとりでエントランスに入ってきた。あたりを見回し、郁子と目が合うと、まっすぐにこちらへ向かって歩いてきた。
「こんばんは。あの、オフ会の方ですよね」 
 その女性が言った。香水の匂いがきつい。
「そうです」
「よかった。私はゆりママ。あの、いくママさんですよね。はじめまして」
 思い描いていたゆりママのイメージとまったく違う。もっとどこから見てもお母さんお母さんした感じの人だと思っていた。
「あ、私がいくママです、よろしく。他の人は?」
 そう言うとゆりママは、時計をちらりと見て、
「そろそろ来る頃じゃないかしら。何人かは直接お部屋のほうに来るって言ってたし」
 と言った。早紀を特定するのが目的じゃなかったのだろうか。郁子がゆりママの顔を釈然としない表情で見ていたのだろう。ゆりママは、
「早紀を見るのが目的といえば目的だけど、それだけじゃつまらないでしょ。ただ集まって話をしたくて来る人もいるのよ。オフ会ってまあそういうものじゃない」
 そういうものか、と思ってエントランスのほうをぼんやり見ていたら、ディズニーランドからの送迎バスが横付けされ、お土産袋を手にした家族連れが次々とロビーに入ってきた。カップルも何組かいたけれど、男が年下かどうかなんて、ぱっとみただけではわからない。歳が同じ位だと、たいてい女のほうが大人びて見えるものだ。だんだん自分のしていることが馬鹿らしくなってきたところで、エントランスに入ってくる人の波が絶えた。そもそも早紀なんていうネットの中の他人を狩るなんて、やはり馬鹿げている。早紀の言うとおり、郁子たちは何の取り柄もない暇な主婦なのだと思う。それでも、それなりの良識のようなものを持っていて、早紀のような不倫妻に腹を立てるのは間違っているのだろうか。早紀に年下の男との不倫をブログに書いて世間に公表する自由があるのなら、それを不快に思う人が掲示板にその意思を表明する自由だって当然あるはずだ。でも所詮何もかもが人ごとなのだ。
 ゆりママもなんとなくやる気がなさそうだ。それにしてもあと三人いるはずのオフ会参加者は、いったい何をしているのだろう。
「やっぱり、早紀を特定するのは無理だったわね。お部屋に移動しましょうか」
 郁子はゆりママについて、エレベーターに乗った。九階で降りて、客室のドアの前の通路を歩き、934号室と書いてあるドアの前でゆりママは立ち止まり、カードキー差し込んでドアを開けた。

続きのお話


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?