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【R-18】リョウのこと 後編


「リョウだけど……マキちゃん、久し振り」
「久し振りだね、どうしてた?」
リョウから電話がかかってくるのは久し振りだった。ミユが帰ってきてから、なんとなく私から電話するのを遠慮していたというのもあったし、リョウはリョウで、バンドのメンバーが変わったり、引越ししたり、彼女が三人いたりで忙しかったのだろう。
 長年リョウのバンドでドラムを叩いていたマコさんという人が、田舎に帰って就職するというので、バンドを辞めた。代わりのドラマーを探すのにリョウは奔走していた。引越しというのは、世田谷に2Kの破格の部屋を見つけたからで、いつだったか、電話で話したときはなんとか引越しを終えたところだった。それから、そうだ、新しいドラマーが見つかって、どういう事情だったかその人は、リョウとミユの新居に居候していた。ミユは九時から五時までの事務の仕事についていた。
「落ち着いた? 引越してから」
「……何とか、落ち着いた。大変だったけど」
「ミユは?」
「……出てった」
「出てったって?」
「男と」
「どういうこと?」
「あの居候のやつと。マシントラブルがあって、徹夜できなくなって早く帰ったら……っていう、昼メロなんかにはよくある話だ。ミユ手首切って入院したりして大変だった」
「……」
自業自得とか、因果応報なんていう、四字熟語がふと頭に浮かんだ。そんなことを言うべきではないと思い、しばらく沈黙した。
「まあ、元はといえば、俺が悪いんだけどさ。四年だもんな、ミユとは。辛いなんてもんじゃない。先輩とも別れた、向こうはちょっと淋しかっただけっていうか……で、残り一人になった」
ついでに別れれば、そんな好きじゃないのに、と言おうとしてやめた。
「大切にしてあげなよ、その人」
心にもないことを言った。
「もうすぐ、妹が上京して来るんだ。専門学校に通うんで。2Kだから、ここに住む」
妹がいるのは知っていたけど、私と同い歳だったのか。
「そうなんだ」
「いい子なんだぜ、マキちゃんとはきっと合う。妹来たらまた遊びに来いよ」
「行くよ」
ミユは知ってたんだな、おそらく。私が知っているくらいだから、同棲している彼女が何も知らないわけがない。ミユと会うことはもうないだろう。リョウでない男と一緒のミユに会うことにどんな意味があるんだ。あの三人で過ごした日曜日はもう永久に戻ってこないものになってしまったのだ。そう思うとなんだかひどく切ない。
(中略)
 四月の半ばに、リョウとリョウの妹のエリコちゃんに会った。東京案内もかねて吉祥寺へ行った。リョウに似て背が高く、高校でずっと運動部にいたというだけあって、まっすぐ育ったという感じの子だ。私とエリコちゃんは、吉祥寺のすべての雑貨屋に寄り道してリョウを痺れさせた。たしかに、リョウに案内されてもちっとも面白くなかったに違いない。帰りに、リョウとエリコちゃんの住む世田谷のアパートに寄った。六畳の和室が二つに台所のついた,確かに築年数はたっているけど、広さとか立地を考えると破格の物件だった。エリコちゃんとはすっかり仲良くなって、今度はリョウ抜きで買い物に行く約束をした。
 四月の末になっても、シンからの電話はなかった。シンは私のことを一月近く平気で放っておけるのだ。そう思うと今までの一年間は一体なんだったのだろう、という気持ちになった。私だけが一人で空回りして、彼氏が出来たら皆がするようなことを、やってみては一人で悦に浸っていただけなんだろう。でもそろそろこっちから電話したほうがいいんじゃないか……。毎晩そんなことを考えていた。もうすぐ五月の連休に入る。予定は何もなかった。なんだかんだ言っても、私の予定はシンのために大部分が空けてある。バンドの練習とか、バイトは大体決まった曜日に入っている。リョウから電話がかかってきたのは、三連休の前日だったと思う。
「マキちゃん? リョウ」
「リョウちゃん、エリコちゃん元気?」
「エリコ、実家に帰るんだ、連休だから」
「え、来たばっかりなのに?」
「まあいろいろあるんだろうな、残してきた男とか。マザコンだしなあ」
「マザコンなんだ、女の子なのに」
「異常に仲がいいんだ、おかんと」
「マキちゃんは、連休どうしてるの?」
「……何もしてないよ」
「シンは?」
「知らない」
「どうなってんの?」
「別に……どうにもなってないよ。電話かかってこないだけ」
「映画、見ようか、ベトナム戦争もの」
「……彼女と観れば」
「ダメだな、そういうのはダメな子なんだ」
「……いいよ」
日時と待ち合わせ場所を打ち合わせして電話を切った。
 その日は、絵に描いたように美しい五月晴れで、前評判の高かったその映画の当日券売り場には長い列が出来ていた。前売りを買っておけば良かったと後悔したけど、そもそもゴールデンウィークにリョウとその映画を見に来ること自体が予定外の行動なのだ。後ろのほうで、チケット売り場まで列が進むのを辛抱強く待った。
 リョウと会うのに、特に気合を入れた格好なんてしなくてもいいやと思ったのでジーンズをはいて行った。でも、実際に顔をあわせるとどういうわけかちょっと緊張した。二人で並んで歩いたことなんて一度もなかった。いつも誰かが一緒だったから。
 劇場の入れ替えが始まり、私たちは、何とか後ろから三列目に座ることが出来た。ベトナム戦争を題材にした、リアルで重たい映画だった。
 映画館の外は、嘘みたいに晴れた気分のいい休日の渋谷だった。映画のせいで胸がつかえて重たい。何か感想めいたことを話そうかと思っても、重苦しい戦場の独白がぐるぐる回るだけで、言葉が出てこない。あてもなく映画館の周辺を歩いていたら小奇麗なレストランがあったので、そこでお昼を食べた。卵料理専門のレストランで、注文したオムレツは百点満点を付けたくなる出来だった。私は卵料理にはとてもうるさい。それから、高架線のガードをくぐって公園通りのほうに出た。途中、自主制作の中古レコードばかり売っている店なんかを見ながら、公園通りを上がって、ファイアーストリートの方に抜けて原宿の方まで歩き、表参道の並木道を歩いたあと、明治通りに入ってまた渋谷に戻って来た。歩きながら、いつも電話で話すような、ミユのこととか、他の彼女のこととか、妹のエリコちゃんのこととか、バンドや音楽のことなどいろいろな話をした。渋谷に戻ってきても話は尽きなかった。今までずっと、ミユに気を使っていて、リョウに話したいことがあっても、自分から電話することはあまりなかった。リョウと時間を気にせず話が出来るというのはこんなに楽しいことだったなんて、今まで気づかなかった。
 渋谷に戻ってきたらもう夕方になっていたので、公園通りにあるバーに入った。お洒落な割には安くて、ショット形式の明朗会計なので、よく行くところだ。窓際の席について炭酸で割ったバーボンとつまみを何種類か頼んだ。
「なんか変な感じ。マキちゃんとこんなふうに会ったの、今日が初めてなんて」
「そうだよね。でも彼女三人もいたら手一杯でしょ」
「何だそんなこと言って、マキちゃんにもいるくせに」
「……でも、彼氏がいるのに、なんで私、連休にこんなに暇してるの?」
そんなこと言うつもりはなかった。でも口に出して言ってしまうと本当にシンと私は終わっているような気がして来る。映画を見たあとの重苦しい気分はもうすっかりどこかへ行ってしまっていた。あのどんよりとした重い気分は、こんな暗い映画を一緒に見たという、重大な秘密でも共有しているかのような親近感に変わっていた。彼女とは見られないって、リョウが言っていたことを思い出して得体の知れない優越感に浸っていた。
 こんなことを考えるのは初めてではなかった。もともと、その彼女のことは一部始終を知っていたのだ。会ったことがあるわけじゃないけど、リョウと伊豆に旅行に行ったところから知っている。まるで古女房みたいな変な優越感。
 バーボンを何杯かお代わりして、だんだんと酔いが回って来た。お昼頃から途切れることなく話をしていたので話すこともなくなってきた。私はお酒にあまり強いほうではないけれど、顔にはまったく出ない。飲みすぎたときが付いた時はすっかり足を取られていてまっすぐ歩けなくなっていることが多い。
時刻は十時を少し回ったところだった。そろそろ帰らなければならない時間だ。帰ろう、と思った。店を出て公園通りを下って、ハチ公口のところで別れる。今日は楽しかった、エリコちゃんによろしくねって言って、一人で電車に乗る。そこまでシュミレーションしてみて、それは私の望んでいることではないと、はっきりわかった。
それでは私はどうしたいのか。
わからない。わかるのは、私はもう足を取られていて、歩けなくなっているということだけだ。原因はアルコールなんかじゃない。とにかく、この男が欲しい。どうしていいかわからなくて、気持ちが波立つ。苛立って、自分の手を強く噛んだ。
「マキちゃん、何してんの」
「手、噛んでるの」
「なんで?」
「わかんない」
「すごい、歯形ついてる」
「ね、リョウの手噛んでいい?」
私はテーブルの上のリョウの手を取って、親指の付け根を噛んだ。
「いてっ、何すんだよ」
「ごめん、なんか噛みたかった」
「ほんと、猫みたいなやつだな。……出よう」
席を立ってみると、思ったより酔ってはいなかった。リョウに肩を抱かれて店を出てエレベーターに乗った。そのビルから出たところで、どちらからともなく抱き合ってキスをした。リョウの息を止めるぐらいの勢いで舌を吸い込み、背中に回した腕に力を入れた。薄いシャツなんか着ていないのと同じぐらいに体の熱と心音を感じて、本当にこのまま溶けるんじゃないかと思って、恐ろしくなる。今ここで世界が終わっても私には気が付かなかったと思う。
 通りすがりの酔っ払いにあからさまに冷やかされて、我に帰った。そこは人通りの絶えない夜十時の渋谷の公園通りだった。
「……家に来る?」
「……世田谷まで行ったら電車で帰れないな」
回らない頭でやっとそれだけ考えた。
「じゃあ連れ込むよ」
どこをどう歩いたのか、まったくわからなかった。紫色に光るネオンを見つけて吸い寄せられるように中に入った。
 私に比べると、リョウはずっと冷静だった。部屋に入るなりあの続きを期待していた私とは違って。
「先にシャワー浴びておいで」
と言われたので、素直にバスルームへ向かった。出てきた私に軽くキスしたあと、リョウがバスルームに入っていった。シャワーの音が聞こえてくる。
部屋は和室で、普通の旅館では見たこともないようなダブルサイズの布団が敷いてある。ベッドのような高さはないので、足を投げ出して布団の端に座ってリョウを待つ間に、タオル一枚巻いただけの体が冷房で冷えてくる。
「何だか照れるな」
出てきたリョウは私の横に座って、唇にキスした。体が冷えてきたせいなのか、私も店を出たときよりは随分冷静になっていた。食べたり喋ったりしながら、舌は動きまわって、口の中のいろいろなところに触れているはずなのに、キスだけが人をこんなに切ない気持ちにさせるのだろう。体の奥が痺れてきて、リョウの背中に回した腕に力が入らなくなる。あっという間にタオルを剥ぎ取られて指を差し込まれた。
「キスだけで、こんなになってる」
囁きのあと、そのまま耳に舌を入れられて、くすぐったさに身を捩る。手は、乳房を包んで、指先は小さく尖った突起を弄ぶ。行為が進むにつれて、感覚も思考も研ぎ澄まされて来る。シンとは全然違う、すごく慣れた感じ。体のパーツをひとつひとつ確認するみたいに動くあの大きくて不器用な手が懐かしくなる。それでも罪悪感はまったく感じなかった。
「ね、つけて」
膝を割って、リョウが入って来ようとするときに慌てて言った。
「大丈夫」
今日は何日だったけ、と計算してみたら、多分大丈夫な日だったので、そのまま受け入れた。
相手によって随分違うものだなと、上りつめながらも変にクリアーになっていく頭でそんなことを考えた。砕け散った意識のかけらを拾い集めて、高みから俯瞰するように乱れていく自分を見ている。リョウは何度か動きを止めて、私の唇にキスしてくれる。優しいのはいいんだけど、そのたびに焦らされたような気分になって足を絡みつかせる。シンはそんなことはしなかった。今更ながら私の身体はシンに馴染んでいたのだと思う。
「ごめん、もう持たない」
低く短い声をあげて倒れこんで来るリョウを抱きとめた。痩せすぎな体はシンにそっくりだ。体重も同じくらいなんじゃないかと思う。
「……そんなに男を早くイカせちゃダメだ、やな奴だなマキちゃんは」
「そんなこと言われても、よくわかんない。でもそんな我慢しなくていいよ」
「比べただろ、シンと」
図星だった。
「やだな、比べてないって」
「嘘つけ、俺は比べたよ、二人目のとき」
「別れるよ、シンとは。ってか、もう既に自然消滅状態だけど」
「俺もちゃんと別れる」
その日、家に帰ったのは午前一時を回っていた。
 翌日は三連休の最後の日だった。私の帰りが遅かったので母親は昨日からひどく不機嫌だった。出かけている間に、誰からも電話はかかってきていないようだった。
 昼頃にリョウから電話があった。
「リョウだけど、昨日はちゃんと帰れた?」
「うん、終電だったけど」
「お母さんは」
「怒ってるよ、午前様だもん」
「エリコ、夕方まで帰ってこないんだけど……来る?」
「行くよ」
すぐに支度をして、母には今日は遅くならないからと言って、逃げるように家を出た。
 
 最寄り駅まで迎えに来てもらって、リョウの家まで二人で歩いた。いつもはいくら話しても話が尽きないのに、変に照れくさくて、ほとんど黙ったままだった。
「なんか、照れるな」
「うん」
「マキちゃんと、こんなことになるなんて」
「後悔してる?」
「してない」
「マキちゃんは?」
「マキでいいよ……後悔してるわけないじゃん」
 リョウが私の手をそっと握る。それまでは、いつもの癖で、普通に肩を並べて歩いていた。リョウと手を繋いで歩くなんて初めてだった。口も利けなくなるほど恥ずかしくなって、私はまた無口になった。
 家に着いてからも、気恥ずかしい感じは続いていた。二人分の紅茶を入れて、和室の座布団に座って、電源の入っていないテレビのブラウン管を二人で凝視していた。テレビを見るための定位置なので、つい目が行ってしまうのだ。何やってるんだろう、私たち。リョウが、テレビをつけて、一通りの局にチャンネルを回してからまた消した。
「マキ」
「何?」
「手、噛んで」
「やだ……酔っ払ってたのよ、昨日は」
「あれには来たなあ」
「そうかな」
「今日は飲んでないからさ、もうちょっと持つかも」
「やだなあ、私そんなこと全然気にしてないって」
気にしないというよりは、よくわかっていない。そう言おうとしたときに、後ろから抱きしめられて、キスされた。それから、午後中かけてゆっくりお互いの体を探求した。
 (抜粋終わり)



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