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短篇小説 予告2/10 (猫を狩る9)

前回のお話(最初から読む)

この小説は 連作短編の2作目になります。
1作目の『猫を狩る』はこちら

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 葉月が残した朝食をシンクの三角コーナーに捨て、皿を洗う。とてもものを食べる気がしない。浴室からドライヤーの音が聞こえてくる。ダイニングテーブルに置きっぱなしに鳴っていた葉月の携帯が震え出した。濡れた手をタオルで拭い、携帯に手を伸ばそうとしたところで、浴室のドアが開き、葉月が慌てた様子で携帯を奪い取る。
「……うん。そろそろ出るよ。今日? 今日は大丈夫だけど…、え? ちゃんと持ってきてよね。あの……、え? 学校で? 今ちょっと…、ちょっと待って」 
 葉月はダイニングキッチンを出て、自室に戻り、ドアを閉めた。
 
 さっきまでの仏頂面とは打って変わって、恥らうような笑顔を浮かべながら、甘やかな声色で喋る娘は、世間的に見れば可愛らしい女子高校生なのだろうと思う。どこにでもいる騒々しくて装飾過剰な安い女の予備軍みたいな葉月に、頭の悪そうな男が群がってくることは、火を見るより明らかだった。今日大丈夫とか、ちゃんと持ってきてって、いったい何のことなのか。
 
 葉月が男と歩いているところを一度だけ見たことがある。遅番を終え、駅前のスーパーに向かっているところだった。ひょろりと背が高くて、赤茶色に脱色した前髪を目が隠れるうっとおしい長さにカットした男だった。早苗と目が合うと、細い切れ長の目で、蔑むような視線を投げかけてきた。不自然に長い腕にぶら下がるようにして歩いていた葉月に耳打ちされ、早苗からは慌てて視線を逸らせた。こういうときにまともな親なら、その場でつかまえて説教でもするのだろうけれど、気づかなかった振りをして早苗もふたりから視線を逸し、足早に歩き去った。
 
 時計を見ると、七時半を少し過ぎた頃だった。葉月は身支度に時間をかけすぎなのだ。そろそろ家を出ないと、バスを逃してしまう。早苗は葉月の部屋のドアを開けた。ベッドに腰掛けて湿った笑い声を立てる葉月に早く支度をするように促す。葉月は携帯を持ったまま、洗面所に駆け込み、ブローの続きを始める。いい加減にしなさいと怒鳴りつけると、葉月は頬を膨らませ、無言で家を出た。
 
 直之はもう寝たのだろうか。四畳半の引き戸をそっと開けると、直之はフロアクッションの上で寝息を立てている。ノートパソコンには、アダルトコンテンツの販売サイトの画面が表示されている。素人隠し撮り画像、というのが直之のコンテンツだが、すべてアダルトサイトのサンプル画像をコピーしたものだ。最近は、人妻はめ撮りサイトの管理人だという雅人という男と組んで動画を作って販売したいと言っていた。二週間ほど前に、不倫ウォッチ掲示板をつかって暇な主婦を狩り、雅人に紹介してやったけれど、そのときの画像はどうなったのだろう。画像のファイルをチェックしてみると、髪を手でまとめて押さえた女の後姿と、うつむいて自分の体を抱くようにして胸を隠した女を上から撮ったもの、それから、ベッドの上で体育すわりをした女を横から撮ったものが、数十点ずつ。誰かに似ていると思ったら、前夫の浮気相手に似ている。自分の体を庇うように胸の辺りで腕組みをして、うつむきがちにあの家のソファに座り、妊娠しているんです。絶対に堕ろしたくなかったから、六ヶ月まで隠してました。男の子なんです。と言って膝の上で手を組み合わせたあの女を思い出して胸糞が悪くなる。部屋の内装やベッドカバーには見覚えがある。ホテルオークラのあの部屋だ。もっとあからさまな写真を撮ってネット上に公開するはずではなかったのか。なにしろ、直之も早苗も、自分達だけは安全な場所にいて、暇つぶしに不倫ブログを糾弾する主婦が大嫌いなのだ。オフ会を開いて、そういう主婦をおびき出して監禁し、動画を撮って販売するというのは、直之の発案なのに、こんな生ぬるい写真しか撮らないなんて、詰めが甘すぎる。
 
 あの雅人というはめ撮りサイトの管理人は、プロカメラマンのアシスタントを何年かやっていたことがあるという話を直之から聞いた。実際に会った郁子は、顔の造作といい、体形といい、服のセンスといい、何をとっても平均的で、印象には残っていない。顔がはっきり判る写真がないのにもかかわらず、こんなに美しかったのかと思うような綺麗な写真ばかりなのが頭にくる。直之にも雅人にも文句を言っておかなければ。
 
 朝食の後片付けを済ませてしまっても、直之が起きてくる気配はなかった。出勤前に、洗濯物を干してしまおうと、洗面所に入ると、洗濯機の上に派手なピンク色のケースに入った葉月の携帯が置いてあった。手にとってチャットアプリをチェックしてみた。
 昨日の夕方に、カズという男に送ったメッセージ。おそらくあの茶髪の彼氏のことだろう。

――ほんとに、あいつむかつく。あのキモ男、いつも家にいるんだもん――
 昨日は、六時には仕事を終え、買いものを済ませて早く帰ったはずだ。葉月は十時ごろまで帰ってこなかった。図書館で勉強していたというけれど、信じてはいなかった。

――大丈夫かよ。変なことされてないだろうな――

――うん、そういうのは平気。でも部屋でぶつぶつわけわかんないひとりごと言うの。キモい。ぶっ殺すとか――

――出てこいよ。マクドにいるから――
 
 直之は、無害な男だ。葉月のご機嫌を取ろうとしたり、父親気取りのところがまったくなく、無関心なところがよかった。それなりに上手くやっているのだと思っていた。籍を入れた当初は、直之は深夜までファミリーレストランにいることが多く、葉月と顔を合わせている暇がほとんどなかった。まさか無職になって、ずっと家にいることになるとは思っていなかった。ネットカフェにでも行ってもらおうかと思ったけれど、よく考えたら葉月が勝手に気持ち悪がっているだけで直之は何もしていないのだ。葉月が態度を改めるようにすればいいだけだ。
 その前の深夜のメッセージに遡る。

――本気だってば。やっちゃっていいよ。協力はする。あんな女、母親じゃないから――
 
 やっちゃっていいって、なんなんだ。あんな女、母親じゃない? 離婚してからも必死で育ててやっているのに。葉月のことは娘だとは思っているけれど、可愛いと思ったことはない。葉月さえいなければ、あの鼻持ちならない元夫と姑とあんなに長く暮らすことはなかった。いったい何事かと思って、ひとつ前のメッセージを表示する。

――お前本気かよ。本当にいいんだな。気持ちはわかるし、俺も何とかしてやりたいけど、おまえの母親だぜ、よく考えろよな――
 
 その日のいちばん最初のメッセージから順に、見てみることにする。

――もうあの女、どうにかしてよ。あたし、苛め殺されるよ、そのうち――
 
 葉月が早苗に黙ってピアスの穴を開けたのだ。ピアスを取り上げようとしても逃げるので、耳を引っ張った。その日のことが延々と綴られている。耳を引っ張って家中を引きずりまわし、首を絞められ、頬を張られ口から血が出て止まらなかったと書いてある。首はたしかにつかんだ。ピアスを外すためだった。締めてはいない。頭にきて平手打ちしたけど、思い切りではない。

――すげえ鬼婆。そうは見えないけどな。なんかこう、うちのババアとはちがって、物わかりよさそうだけど――

――化粧臭くて、近寄っただけで吐き気がするんだよ。その上あんなキモ男とヤりまくってメスブタみたいな変な声出すし、あたしを苛めるのが趣味だし、最低――
 
 このマンションに引っ越してから直之とはほとんどセックスをしていない。こんな安普請では、葉月にも隣近所にも声が丸聞こえだし、そもそも直之とは、同じ部屋で寝ることもない。でも、夜中に目が覚めると、四畳半からあやしい声が聞こえることがある。エロサイトの動画でも見ているのだろうと、気にも留めなかった。そういうものはヘッドフォンをつけて鑑賞するように言っておかなければ。

――電話していい?――
 
 それから、深夜まで、メッセージは残されていない。葉月が、彼氏のカズという男に頼んで、早苗に何かをしようと企んでいる。そういえば、昨日の帰りにマンションの入り口の自動販売機のところで、高校生らしき男の子たちがたむろして座り込んでいた。そこに、どこかで見たようなひょろりとした茶髪の男がいたような気がしてくる。待ち伏せして、暴行を加えようとしているのか。娘がそんなことを計画しているなんて、考えたくなかった。ピンクの携帯を洗面所に、元の通りの向きに置き、思い直してバッグに入れる。忘れたと気づいて取りに戻ってくるのが癪に障ると思っていたら、届けてあげようと思ったけど仕事が忙しくて忘れた、という筋書きを思いついた。
 細く開けたベランダの窓の隙間をマオがのそりと潜り抜けてくる。死んだ獲物は咥えていなかった。マオは早苗のふくらはぎに顔をこすりつけて甘えるような声で鳴いた。さっきまで血まみれの小鳥を咥えていた口元だと思うと、背中に嫌な汗が浮かんでくるのを感じた。

続きのお話

 


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