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犬 中勘助著 (11)

※中勘助著『犬』という作品です。
※旧仮名遣いは新仮名遣いに、旧漢字は現在使われている漢字に修正し、読みの難しい漢字にはルビを振ってあります。

前回のお話

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11

 第七日。娘は二重の意味で今日が待ちどおしかった。それは満願の日であるゆえに、また何故かは知らずいやでならない日参の終る日であるゆえに。で、いつになくいそいそとして出かけた。彼女を迎え入れた聖者はいつものとおり燈明をともしたがそのままおもむろに話しかけた。
「これ女、邪教徒らはまだ町に居るか」
「はい」
「皆居ろうな。少しはたったものもあるか」
「いいえ。でも明日にはたつのではないかと思います。昨夜夜中から大騒ぎをして、そうして今日暮れの方あの大きな榕樹のところに……」涙が彼女をさまたげた。「……集ってなにかお祭りのようなことをしていました。怖いので誰もそばへ行って見たものはありませんが、きっと出発の支度が出来たのであっちの神様を祭っているのだろうと皆がいっていました」
 聖者は大きくうなづいてじっとなにか考えている。彼女は「あの人」が必ずその中にいて、そうして明日はほかのものと一緒に行ってしまうような気がして胸一杯になった。
「畜生めらが。早う行ってしまえ」
ややあって聖者はぼけたようにいった。
「今夜はいよいよそちの身も淨まるぞ」
「………………」
「湿婆のお告げがあった……」
「ありがとうございます」
 彼女は合掌してわずかに身をこごめた。
「これで満願ぢゃ。気を確にもてよ」
「はい」
「湿婆のお告げぢゃ。その腹の子をおろせという」
「ひえっ」
 彼女はまっ蒼になってわなわなとふるえた。そしてわっと泣きふした。
「どうぞそれだけは、お願でございます。聖者様、お慈悲でございます。そればっかりは御免くださいませ」
「たわけめが。そちは子がかわええのぢゃな。これ、よう考えてみいよ。それは邪教徒の胤ぢゃぞ。そちは起水のついた畜生が腹のなかへしこんでいった血の塊がいとしいか。そちは腹から穢れて居るのぢゃ。畜生の血臭くなって居るのぢゃ。その子は口が耳まで裂けていようぞ。尻尾が生えていようぞ。おろしてしまえ。いやといえば必定地獄ぢゃぞよ」
「それはご無体でございます。この子は私の子でございます。誰の子でもありませぬ。この子はどうでもはなされませぬ」
「さてさて情のこわい女め。そちは地獄が恐しゅうはないか」
「私は地獄へ堕ちてもいといませぬ。それだけはおゆるしなされてくださいませ」
「ゆるせというてそれがわしにできることか。お告げぢゃぞ。さあどうぢゃ。おびえることはない。わしが按排あんばいようしてやる」
「いえいえとんでもない。私は神様にお願いたします」
「神の仰せはわしがとりつぐのぢゃ。わしのいうことは即ち湿婆の神意ぢゃ。どれ」
「いえいえどうあってもなりませぬ」
「まだいうか。こうれ」
聖者は右手をのばしてきりっと彼女の頬を抓った。
「あ、かにして、かにして……」
「うむ、いうことをきくか。さあ」
「あれえ」
 聖者がいざり寄って着物の端に手をかけるのを振りほどいて逃げようとした。彼はすばやく立あがって後ろから抱き竦めた。そして恐ろしい顔になった。
「男の命にかかわるぞ」
 彼女ははっとして。阻止て抱かれたままよろよろとして横に倒れた。
「きかずは男を呪い殺せとの御告ぢゃ、何十何百由旬はなれていようとも彼奴の五体は蛞蝓かつゆのように溶けてしまうのぢゃ。それはそれはむごたらしい苦しみをするぞよ。の、これ、男のためぢゃ、おろして了え」

続きのお話


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