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犬 中勘助著 (6)

※中勘助著『犬』という作品です。
※旧仮名遣いは新仮名遣いに、旧漢字は現在使われている漢字に修正し、読みの難しい漢字にはルビを振ってあります。

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6

 天幕のなかで彼女は裸のまま両手で顔をかくしてしくしく泣いていた。男は着物をとって手つだって彼女に着せた。そうしてやだしくじっと抱きしめてさも可愛げに、また心から詫びるように涙に濡れた眼瞼に口つけた。彼女は彼の胸に額をよせて息のとまるほど泣きじゃくりした。彼に対する彼女の信頼は目のまえに無慙に裏ぎられた。とはいえ不思議にもそれについて彼女の心に驚きや怒りの痕跡さえもなかった。ただ最初に、一般に異性との交渉に対する処女の本能的な恐怖があった。そしてその次に、童貞を破られた女性の――正当にでも不正当にでも――深い、遠い、漠然とした悲しみがあった。さきに「信頼」と見えたところのものは実は「信頼」の假面を被った「許容」であったのかもしれない。男は金絲の縁縫いをした着物で涙を拭いてくれながらしきりになにかをいい慰めるようであったがもとよりひと言も通じなかった。彼はしまいに自分の顔を指さして
「ジェラル、ジェラル」
と幾度も繰りかえした。
「私はきっとその人がジェラルという名なのだろうと思いました」
と彼女はいう。聖者は脅かすようにいった。
「それは名ではないぞ、邪教徒は彼奴らの使う悪鬼を呼ぶ時にそういうのぢゃ。そ奴は悪鬼の力でそちの心までたぶらかしてしもうたのぢゃ」
「私はようやっと立って帰ろうとしました。その人は手をとって助けてくれました。そうして外に番をしていた従者を呼んでなにかいいつけました。従者は苦笑いしましたが多分いいつけられたとおり私を送って家の近くまでついてきました」
 話す彼女よりも聴いている聖者は一層見るも無惨であった。
「そちの罪業は深いぞよ。明日から七日のあいだ今日の時刻に湿婆シヴァにお詫びをしにこい、必ず忘れるなよ。さあ帰れ。穢れた奴」
 彼女はもじもじとして立ちかねていた。やかましい主人がそれを許してくれるかどうかを気づかうのであった。で、恐る恐るその懸念をうちあけた。
「よし。帰ってこのわしがいうたといえ。もしそちをおこさぬようなれば彼らまでも咀われるぞと」
 彼女はすごすごと草庵を出た。森のそとは月が皎々と照っていた。彼女は家へ帰っておずおずと一伍一什を話した。そうして最後に聖者のいった言葉をも附け加えることを忘れなかった。凌辱についてはすでにその当時わかっていたので格別のこともなかったが、日参のことになると主人はいきなり顔が曲がるほど彼女をなぐりつけた。暇がかけるのと供養の費えるのが業腹だったのだ。そうして結局あとから余分に働いて穴埋めをする約束のもとにしょうことなしに許した。
 彼女は一般に邪教とのいかなるものであるかは知り過ぎていた。それは憎むべきもののなかでも憎むべく、恐るべきもののなかでも恐るべきものであった。彼女は彼らを憎み、恐れ、かつ咀っていた。それにもかかわらず、彼女は己を抱愛した若い、美しい、優しい――と思った――男を憎むことができなかった。そればかりかどうしても忘れられない。彼は彼女を穢した。それが穢したのならば。とはいえ彼の抱愛はいかばかり心こめた熱烈なものであったか。それは彼女が未だ曾て夢想だもせずして、しかも我知らず肉と心の底の底から渇望していたところのものであった。彼女はその思い出すも恐しい、奇怪な、しかも濃に、甘く、烈しく狂酔させたところのそれを思うのであった。それは恐ろしく、奇怪であったためにますます不思議な魅力のあるものとなった。彼女はまた自分の腹の子を考える時、男と自分との間に一種神秘な、神聖な鎖が結ばれたような気がしてならない。そうして彼がいつか再び戻ってきて自分とめぐりあうような気がしてならない。彼女は勝ちほこったような気持で覚えずほほ笑みながら胸のうちでこんなことをいってみる。
「御覧なさい。私はあなたのものです。私はあなたの子を授かりました。私は神かけてあなたのものです。私を抱いてください。口つけてください。一緒につれてってください」
と。

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