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短編小説 猫を狩る4/7

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「ママ、ねねちゃんはお医者さんに行ったの? 手術は終わったの?」
学校に着くと、花梨は郁子を見つけるなり、駆け寄って来て言った。
「今日は準備だけよ。手術は明日」
「ママ、ねねちゃんはひとりぼっちで、赤ちゃんも産めなくて、可哀想だよ。もう一匹子猫を飼おうよ。ね、いいでしょ。真奈ちゃんのところに子猫が生まれたんだよ。一匹欲しいってもう言っちゃった」
 
 郁子はため息をついた。ねね一匹のことで、あれだけのトラブルを起こしているのに、もう一匹なんて絶対に無理だ。でも、花梨にも真奈ちゃんという友達がいるのだと思ってほっとした。女の子の友達なら仲良くしていても陰口を言われることもないし、猫を飼っているということは、少なくとも猫を飼っているという理由で、いじめたりするような子ではないはずだ。
岸田さんが公園ママを代表して苦情を言いに来てから二週間ほどたってからのことだった。幼稚園から帰ってきた花梨が突然おかしなことを郁子に訊いた。
「ねえママ、『さかりがつく』ってどういうこと?」
 何のことを訊かれたのか、一瞬わからなかった。花が咲き乱れるとか、紅葉が盛りですとか、そういうことを幼稚園で習ったのだろうか。
「あのね、運動会のお遊戯でね、男の子と女の子に分かれて違う踊りをするの。花梨は女の子の方に入るのやだって言ったらね、桃実ちゃんに、『花梨ちゃんってやっぱりさかりがついているんだね。だっていつも男の子とばっかりくっついてるもん』って言われたの」
 耳を疑った。六歳の子供にさかりがついているだって? 花梨は女の子らしい遊びも、可愛らしい服装も苦手だ。花梨が小さい頃はまだ二人目を産むことを考えていたので、着せる服も与える玩具もすべて、下の子が男の子だった場合に使いまわしのできるものを選んでいた。それがいけなかったのか、男の子のように育ってしまった。でも、男の子とばかり遊びたがるからといって、さかりがついているというのとはちょっとどころか全然違う。
「男の子と遊ぶのがさかりがついてるってことなの?」
ある意味で正しいとも言えなくもないけど、どうも六歳児には説明しにくい。でもなんで花梨が知らないような単語が桃実ちゃんの口から出てくるのだ。
「桃実ちゃんには『さかりがつく』ってどういうことなのか訊いてみたの?」
「ううん。桃実ちゃんは花梨のことがきらいなの。『さかりがついてる』から。あと、花梨は悪い病気を持ってるの? 猫を飼っていると悪い病気になるってみんなが言ってるよ。花梨が触った玩具にはばい菌がついてるからって、その菌をみんなで付けっこしてるんだよ。ねえママ『さかり』っていうのはばい菌のことなの?」
 猫を飼っているからって、ばい菌を持っているというのは間違いで、「さかりがつく」というのは、桃実ちゃんもどういうことなのかわからずに、誰かから聞いたことをそのまま言ってるだけなのだと説明した。犬や猫はさかりがつくこともあるけど、人間の子供にさかりはつかないのだとも。花梨はわかったようなわからない顔で頷き、それ以上「さかりがつく」ことに対する説明は求めなかった。郁子の口調からこれ以上立ち入ってはいけない何かを感じ取ったのだろう。察しのいい子なのだ。誰かから聞いたこと、という自分の口から出た言葉を思い出し、はっと気がついた。言ったのは小田さんだ。桃実ちゃんの弟は就園前なので、苦情を言いにきた岸田さんと小田さんは公園仲間なのだろう。
 
 その翌日から、花梨は幼稚園に行きたがらなくなった。幼稚園なんて義務教育じゃないんだし休んでも辞めてもいいやと思って花梨の好きにさせていた。二三日休むと意を決したように登園し、また休むことの繰り返しだった。幼稚園を変えるにはもう遅すぎたので、学区外の学校に入学させることを考え始めた。
「花梨は真奈ちゃんとは仲良しなの?」
 子猫のことから話をそらすために、花梨に訊いた。
「うん、真奈ちゃん大好き」
「だったら、今度うちに遊びにつれておいでよ。ママが車で迎えに行ってあげるから。真奈ちゃんちの電話番号を聞いておいてね」
 花梨が学校に馴染んでいることを知って、ほっとした。毎日送り迎えをしている甲斐があるというものだ。

 花梨とふたりで簡単に夕食を済ませた。夫の裕二が夕食の時間前に帰ってくることは珍しい。
 裕二は独身のときに働いていた会社の同僚だった。よくいえば飄々としている、悪く言えば、仕事と、趣味である世界の王室の家系図づくり以外のことにはまったく興味のない男だ。どこか悟ったようにオヤジ臭く、服装も言動も垢抜けず冴えない男だった。でも、よく見ると整った端正な顔立ちをしているのだ。花梨があんなに可愛いのは、上手いこと裕二に似てくれたからだ。郁子は、容姿にうぬぼれを持っている男が苦手だったので、入社したころから密かに裕二をチェックしていた。裕二は、女性と付き合うということにも、大した興味を持っていなかったように見えたけど、あまり人気があるとは思えない単館上映の映画を、裕二も観たがっていることがわかり、一緒に観に行ったことから、メッセージのやり取りを始めた。を始めたきっかけだった。
 
 つき合い始めた頃から老夫婦のように淡々とした関係だった。郁子に指図したり、何かを押し付けたりすることのない人で、そもそも付き合う女性のファッションにも、デートする場所にも、ほとんど興味がないのだ。それにはなんとなく気づいていたけど、一緒にいるのがあまりに楽だったので結婚した。
 結婚する少し前に裕二を友達に紹介したときに、
「結婚してからモテるタイプだから気をつけな」
 と言われた。モテる、というところで思わず笑ってしまった。裕二がモテるなどという言葉とはまったく無縁な人生を送ってきたことは郁子が一番よく知っている。けれど、今思えば友人の予言は当たっていたのだ。
 裕二はおそらく浮気をしている。証拠はないし、問い詰める気もない。今まで積み重ねてきたものが崩れてしまうのが恐ろしいのだ。どこまでが愛で、どこまでが惰性なのかなんて、考えるのも無駄なので、花梨とふたりで静かに生活できればそれでいいと思って、帰りが遅くても、ポケットから二人分の飲み物と軽食を買ったカフェのレシートや、仕事では行くはずのない駅からの切符が出てきても、一度も追求したことはなかった。

続きのお話


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