「学問のすすめ」第七編 感想

各編を読み終えてから、これとこれって繋がった内容だからまとめてアウトプットしたほうがよかったな、と思うことがあります。
今回の『学問のすすめ』第七編も、第六編とつながりがありました。全体を通して読む力がもっとつくといいんですけどね~。
ということで「第七編 使命とは何か」です。

非暴力での対抗を

「第六編 法とは何か」では、法をつくるのは国民で、国民は政府と約束を結んでいるため自らが裁く行為(私刑=リンチ)を否定する、としていた。

本編では、その約束相手である政府に対抗するための手段を紹介しており、中でも非暴力をもって立ち上がるべきだという主張だ。
『学問のすすめ』自体は1880年ごろの書籍ではあるものの、その意見は20世紀以降のガンジーとかキング牧師の考えとも通じるもので、世界的に結論(理想論でもある)じみたものなのだろう。

これだけみると真っ当な意見だが、ここで面白いのは、その前提として「信念を曲げて政府に服従する」行為は大変よくないものとしている。

まず一つ目の方法だが、信念を曲げて政府に服従するのは、大変よくない。天の正しい道に従うのが、人たる者の務めだ。それなのにその信念を曲げて、政府がこしらえた人造の悪法になびくのは、人としての務めを破棄することだと言える。

「信念を曲げるのは最悪」

思想の自由があってこその人間であって、反抗する精神そのものが失われるのは最悪のことだということだろう。真に悪い政府というのはこれを断絶してしまうことなのだとは思う。
この思想の前提をもって、どのように対抗・戦うべきかを本編では紹介しているのだった。

文明に貢献するための殉死か?

おさむらいさんの時代には「切腹」という自死の概念がある。「切腹」は当時ではやむを得ないこと、認められていた行為とはしつつも、文明化された社会においては、「命の捨てどころを知らないものと言えるだろう」と厳しく指摘している。

本編では「文明的な行いかどうか」「文明に貢献できるかどうか」の基準をもって先述の反抗であったり自死を考えている。
これは江戸時代に直結した次の時代の考えなので、現代だとまた捉え方も変わるかもしれない。

けっきょく人間の心情なんてコントロールできちゃうので、殉教・殉死とテロを掛け合わせることができてしまっているのが、世界の永遠の課題なのだと思う。

日本では自爆テロ自体はほとんど起こらないが、「死刑にしてほしくてやった」というような犯罪行為は見かける。これは「文明に貢献できるかどうか」だとNOといえることで、当事者の思考の偏りや環境が引き起こしてしまうものが大半だと思う。

言論での対抗をしているのを白けた目で見てしまいがちだが、こうした前提のもと、できる範囲で日々闘っているのかもしれないな、と考えると少し見る目も変わるのかもしれない。

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