友人たちとの旅にて。

Oct 2, 2019 by Ryota Nagashima

夏の終わりに、それぞれ違う分野で活動する同年代の表現者たちと高松へ行き、美術館を見て回った。分野が違うと、1つの作品を見ていても目の付け所が違うし、そもそも世界の見え方も変わるんだなぁと改めて思った。自分が感じたことを忘れないために、ささっとメモ程度の文章です。

直島で安藤忠雄の建築を見ていた時に、

建築を学んでいる友人が、

「悔しい!」と言っているのを聞いて、

彼女のフィールドはここなんだと実感。


絵を描く友人は、近代の日本画を見て、

使っている塗料に関心を持っていた。

現代の多様な塗料を使えたら、

当時の人たちはどんな絵を描くかなんて、

それまでの自分には全くない視点で新鮮だった。


過去の巨匠たちを見て、悔しがったり、学ぼうという気持ちが生まれるのは、それぞれの分野において"プレイヤー"であるからだ。


では、自分はどうだったのか。

数々のアート作品に触れて、

友人たちと会話をする中で、

"書く"という視点が強いことに気づく。

直島の美術館で見た、狭く暗い空間をくぐったあとで視界に入る、モネの「睡蓮」の美しさ。あの建築と絵画の組み合わせによって生まれた感動を、どうにか文章のリズムで表現できないかなぁなんて考えている自分がいた。


最終日は豊島で、

ボルタンスキーの作品と、

豊島美術館の作品という対照的な作品を見た。ボルタンスキーは、人それぞれの心臓の音を保存するアートワークを行なっていて、実際に僕も、自分の心臓の音を録音してみた。

流れていく生の"瞬間"を切り取り、ある種の絶対性のようなものを大切にするアートは、西洋的でとても興味深かった。


対して、 内藤礼と西沢立衛による豊島美術館は包まれるような、安心感が得られた。

光や水、風や音が生み出す作品は、どの瞬間を切り取ったとしても同じものはなく、不規則で、予定調和のない自然がそこにはあった。

僕にとっては、ボルタンスキーの作品以上に、心を惹かれ、親近感を覚えた作品だった。


全て見終わったあとに、

3日間、一緒にまわった友人が一言

「豊島美術館から感じられる雰囲気はあなたに似ていた。」と言ってくれた。

その言葉を聞いて、嬉しかったのと同時にほっとした自分がいた。


瞬間を切り取って、事象を縛る言葉も美しいけれど、読み手によって、いかようにも変化する言葉の方が僕は好きなのかもしれない。


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