信じるけど、期待はしない

他人には一切の期待をしないように心がけています。大げさに言えば「裏切られて当然」と思うようにしています。常に疑心暗鬼になっているわけではなく、フラットな位置を保っているつもりです。そんなの人間らしくない、心が冷たいと思われるでしょうか。でも試行錯誤を繰り返した上での、私なりの人間関係の守り方です。イメージとしては、自分勝手に相手に乗せてしまった荷物を下ろす、という感じです。

最近、人間関係におけるマインドセットに関して、個人的に発見したことがあります。それは「人を信じること」と「人に期待すること」を混合している人が多すぎるのではないか、ということです。「期待」というのは、人間関係を壊す大きな原因のひとつで、どちらかというと「責任転嫁」に近いのではないかと思っています。信じているからこそ期待するんだ、という人がいますが、信用、信頼と期待は別物です。感覚だけで語るのは危険なので、手元にある辞書とインターネットを利用し、簡単に意味を調べてみました。


【期待】

・望ましい事態の実現、好機の到来を心から待つこと。(新明解国語辞典)

・何らかのことが実現するだろう、と望みつつ待つこと。また、当てにして待つこと。(Wikipedia)

・過去の経験および現在の状況に基づいて,ある対象,現象,事件などが現れることを待ち設けている,いわば行動の準備状態の一種。普通,情緒的緊張を伴う。(ブリタニカ国際大百科事典)

・あることが実現するだろうと望みをかけて待ち受けること。当てにして心待ちにすること。(デジタル大辞泉)

・未来のことを予期して、待ち構える態度を意味する。(日本大百科全書)

【信用】

・うそがごまかしがないと信じて、その人の言をそのまま受け入れたり事の処理をすべて任せたりしようとする気持ちをいだくこと。(新明解国語辞典)

・("信頼"が相手を信用し頼りにすることであるのに対し)見返りを求めないこと。(Wikipedia)

・確かなものと信じて受け入れること。(デジタル大辞泉)

・人の言動や物事を間違いないとして、受け入れること。(大辞林 第3版)

【信頼】

・その人やものが、疑う余地なくいざという時に頼る(判断の拠りどころとする)ことができると信じて、全面的に依存しようとする気持ちをいだくこと。(新明解国語辞典)

・相手を信用し、頼りにすること。(Wikipedia)

・信じて頼りにすること。頼りになると信じること。また、その気持ち。(デジタル大辞泉)

・ある人や物を高く評価して、すべて任せられるという気持ちをいだくこと。(大辞林 第3版)

・信じてたよりとすること。信用してまかせること。(精選版 日本国語大辞典)


上記の内容を比較してみると、期待は信用や信頼に比べて「望みをもって将来を決定してしまう」といったニュアンスが含まれるようです。

そうなんです。期待って相手を縛るものだと思うんです。信用や信頼に比べて、エゴが強いです。仮に期待をして、それが叶わなかったとき、期待をした自分が悪いと思うのならいいのですが、期待を裏切ったとして相手を責めたり、怒ったりする人がけっこう多いです。それはもう、とんでもない筋違いじゃないかと思うのです。その人が勝手に期待をして=勝手に将来を決めて、それが実現しなかった=思い通りにならなかった、それだけのことなのです。ほぼギャンブルみたいなものです。「期待してたのに!」と怒るのって、「今朝の占いで1位だったのに!」「この台は勝てると思ったのに!」と怒るのと同じレベルのことだと思うんです。

ブリタニカ国際大百科事典において、期待は「普通、情緒的緊張を伴う」とされています。確かに、信用や信頼に比べて、期待は情緒的、感情的なもののような気がします。冷静さを欠いてしまうのかもしれませんね。信用や信頼は、人間関係のベースとして底の部分に敷かれている感じがしますが、期待はもっと上辺のほうで跳ねているもので、一種のイベントっぽい感じがします。

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期待が発生してしまう原因のひとつには、先入観や固定観念があると考えます。例えば、「女の子らしさ」に対する固定観念があるから、相手がそうじゃなかったときに失望する、とか。「理想の家族像」が自分の中で明確になりすぎていて、相手にも当然のようにそれを要求してしまう、とか。「アイドル」に対する断固としたイメージがあって、それが覆されたときに怒り狂ってしまう、とか。言い換えれば、期待とは、自分の常識の中に相手を閉じ込めてしまおうとすることです。それは相手を否定してしまうことになりかねません。

信じることは、相手を受け入れること。期待することは、相手に自分の理想を押し付けること。この2つの違いは明確にしておかなければいけないと思います。

期待が原因のトラブルは、家族や恋人や親しい友人など、近しい間柄で特に起こりやすいものだと思います。相手に怒りを感じたら、「自己都合で相手に期待をしすぎていないか?」と、自分の胸に手を当てて、いったん冷静になって考えてみたほうがいいかもしれません。

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期待というのは、油断するとすぐに湧いてきてしまうものです。よって私は少し大げさに「人間は基本的に自分以外のことはどうでもいい生き物だし、裏切られて当然、傷付けられて当然、期待をする方が悪い」と、自分に言い聞かせるようにしています。ここで間違えてはいけないのが、相手を悪者にして、傷付けられる前提で、常に疑いながら人と付き合うわけではありません。自分の思った通りにはならない、ということを絶対に忘れないようにしたいのです。人間はすぐ調子に乗る生き物だからです。

「この世は地獄だ」という言葉も好きです。地獄だと思って生きていれば、ちょっとした親切にも気付いて感謝できるし、ささいなことでも幸せを感じられる機会が増えるからです。

これらは過去に散々な目に遭ったことによって生み出された自己防衛の一種ですが、けっこう的を得ているのではと思っています。そりゃあ、お互いがお互いを敬い、尊重し、信じあえる世界が望ましいのはもっともですが、人間なんてそんな美しい生き物じゃありません。でも、だからといって他人を攻撃していいわけではないし、自暴自棄はただの退化のような気がする。自分はできるだけ誠実に生きていたいけれど、何が起きてもあまり傷付かずに済むような心構えが必要です。そこで、他人に期待することをやめようと思ったのです。あらゆる事態を受け入れられるようにするには、心にもスペースを作っておく必要があります。でも心の中は、色々な気持ちで既にぱんぱんになっているので、何かを捨てなければいけません。そこで期待を捨てました。ひとつ捨てるだけでも、だいぶ心に余裕ができます。期待は無意識的に発生してしまうものなので、意図的に捨てなければどんどん膨らんでいって、心をぎゅうぎゅうに圧迫してしまいます。そうしてぎゅうぎゅうにしたのにも関わらず、それが叶わなかったとき、ついに爆発して相手を巻き込んでしまいます。自分だけでなく、相手も傷つけてしまうのです。自分勝手に乗せた荷物で、最後には相手を叩きつぶしてしまうのです。

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そんなことを私は何度も繰り返して、ようやく気が付きました。相手に期待をしすぎたのです。かなり無意識のレベルだったので、気付くのに時間がかかってしまいました。人を信じられず、その代わり期待ばかりしていたのです。逆でした。信じたとしても、期待をしてはいけなかったのです。それこそが相手を大切にすることであり、また自分を大切にすることでもあるような気がしています。

好きだけど、信じているけど、期待はしない。それが私の理想です。

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余談ですが、人を信じるということに関して、忘れられない思い出がひとつあります。中学生のとき、実家の台所にあるラジオから海援隊の『贈る言葉』が流れてきました。ぼーっと聴いていると、2番にこんな歌詞があったのです。「信じられぬと嘆くよりも 人を信じて傷つくほうがいい」……そんなバカな! と思いました。かなり衝撃でした。そんなことを考えつく人がこの世に存在するということに、ただただ驚愕しました。当時の私は、幼稚園のときから集団行動に馴染めず、女子グループのボスに目をつけられ仲間外れにされていたおかげで(幼稚園児だからと侮るなかれ)、他人との健全な関係がまったくわからないまま思春期を迎えていました。クラス全員が私のことを馬鹿にしているんだと本気で思っていたので、この歌詞で自分のちっぽけな観念を根こそぎひっくり返されて、当時はかなり悩みました。でもこの歌詞って、人を信じられないこと=悪いこと、という前提のもとに書かれているんです。別に悪いことだと思わなければ、信じられないからといって嘆く必要もないかなと今では思います。

もうひとつ余談です。将来起こることに対する気持ちの在り方として、期待→自信→確信、という順番があるのではないかと最近考えています。「もしかして○○になっちゃったりして」が期待、「本当に○○になるかもしれない」が自信、「どう考えても○○になるに決まっている」が確信、という感じです。

心のざわつき度は、期待>自信>確信 です。期待や自信のあいだは胸が踊る感覚がありますが、確信になると、むしろ水を打ったようにしんとして、穏やかな気持ちになります。逆にもっとも心がぐらついているのが期待の段階で、ここで失敗したり予期せぬことが起きると、感情的になりやすいです。自分の気持ちを確信レベルにまで引っ張ることができれば、何かが起きても冷静に対処できるし、実現のために確実な行動を取ることができます。

ということは、自分の中にある期待や自信をすべて排除して、確信だけを残していけば、無駄なストレスや情緒の不安定を避けて、気持ちよく毎日を送っていくことができるのでは? と考えました。何故こんなことを思いついたかというと、私は生きていく上で、できるだけ感情的なもの、特に“怒り”を排除していきたいのです。

これを実現するには、まず自分の中の期待・自信・確信をよく見つめて仕分けることから始めなければいけません。または、期待・自信レベルのものを、どうにかして確信まで持っていくメソッドを開発できるかも。ちょっと根気が必要ですが、面白そうなので、やってみようと思います。何か発見があればまたnoteにまとめます。


最後までお読みいただきありがとうございました。