中学三年で家出したから今私は生きられている

相も変わらず職場の推し先輩・山村さんと同行中、ふと話の流れで中学の時に家出したことをさらっと伝えたら、まあ当然「なぜ?」と山村さんから疑問符が。

私が通っていた中学は私の出身小学校(T小学校)ともう一つの小学校(S小学校)からの生徒が集まっていた。けれど、S小学校の人達は性格がきつかったり、飲酒喫煙万引きなどの警察沙汰は日常茶飯事な人達が多かった。我が身可愛さの集団心理が働き、陰湿なイジメで自殺や転校を余儀なくされた人もいた。
きっと、日本人特有の文化なのだと思う。クラスの目標は一致団結とか掲げておきながら、実際は出る杭は皆で打とうという精神が根付き、一人のターゲットを容赦なく攻撃する日々。そしてそれが終わればまた次のターゲット。そんな環境で段々精神的に追い詰められ、学校という言葉を聞くだけで心臓と胃が張り裂けそうになって、私は笑い方も分からなくなった。
学校に行けない日が続く中、両親はそれが一時的なものだと思ったらしく、家では「また今日も?とりあえず行ってきな」と軽く言われて。
いや、行けてたらこんな事になってないんだって。気持ちが強かったら普通に登校できるし悩みなんかないって。ていうか学校に行かなきゃ悪なの?皆と同じことが出来ないとダメなの?何でなんでなんで。
唯一、一緒に暮らす祖父だけが何も言わずに私の学校での話を聞いてくれたのが救いだったけれど、やっぱり両親に理解されていないのが辛くて、どこにも私の居場所はないんだと絶望した。
それで、「ああもういいや」とスイッチが切れた。

なんかもう、疲れた。自分を受け入れてくれる人なんてここにはいないし、死んでもどうでもいいや。

そう思って、七夕の日、早朝にそっと家を出た。最寄り駅までヒッチハイクして、普段乗らない赤い電車に揺られ、また各停のローカル線で山道を進み県外へ。通帳とカードだけが頼みの綱で、あとは行き方を駅員さんやホームにいたおばあさんに聞いて。今思えば、平日に一人で大荷物を持っていたから、はじめてのおつかいのような姿だったかもしれない。
そうして辿り着いたのが、昔からりんご狩りに訪れていた地域の近く。駅は無人で改札も無い、山と田畑が広がる長閑な風景。日も傾き、もうここで誰にも会わずに死ぬんだと思いながら歩いていた時、農作業中のおばあちゃんに会った。
「こんにちは」と挨拶をした私に何かを悟ったのか、「どうしたんだい?」と聞いてくれた。私はそこで涙が溢れて止まらなくなってしまった。
ああ、私は誰でもいいから、こうやって自分の想いを優しく聞いて欲しかったんだ。寄り添って欲しかったんだと。
それからはてんやわんやで、娘さんご夫婦の家にお邪魔させてもらい、中学二年生のお孫さんとお話したり、ピーナッツバタートーストをご馳走になったり。誰かの優しさに触れたのが久しぶりで、泣きながら食べたのはずっと覚えている。

それからその家の人が自宅に電話してくれて、両親が迎えに来た。父と母は仕事を休み地元をあちこち探し回っていたらしい。置き手紙を残しておいたから、まさか探しているとは思わず、少しだけ罪悪感と、自分を想ってくれてるんだという安心感を抱いた。

それから、担任の先生と生活指導の先生と母との面談、スクールカウンセラーさんからの紹介もあり、フリースクールに通うことにした。
これも後々記したいと思うけれど、とにかくここで温かい人達と出会い、定時制の高校に進学、県外の大学に行くために一人暮らし…という人生を歩んできた。

振り返ると、私があの時家出をしなければ、両親は私がそれほど思い詰めていたことに気付かなかっただろうし、そのまま死を選択していたかもしれない。
今ではむしろあの経験に感謝したいくらいだ。今私がこうしてなんとか笑って生きていられるのも、どん底に落ちて、色んな人に救われてきたからなのだから。

こんな過去話をもっとさらりと、重たくならないように努めながら山村さんに話したところ。

「はと海さんのイメージがめっちゃ変わりました。はと海さんはオタク極めてて、大学にも行けて、一人っ子で…。1回退職してるから苦労したんだろうけど、なんていうか、人生何も考えずに生きてきたのかなって思ってたんですよ。でもこんな経験をしてきたのに、ここまで明るく笑えてるのって本当に凄いと思います」

なんて言われた。

いや待って私そんな甘ちゃん人生イージーモードだと思われてたん!????

という衝撃が大きすぎたけれど、山村さんの中で私の印象がレベルアップしたらしい。
そして後から山村さんの超ヘビー級過去トークが始まって私は白目をむいたのだけれど(後々ここに残します)、久しぶりにあの頃を思い出して、救ってくれた人に恩返しするつもりで色んな人に優しい人でいようと決意を改められた。

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