井戸川射子の「川をすくう手」を読む

井戸川射子の「川をすくう手」を読む 2019.3.18

学校、うん、教室にいるとぽつんと、一つの島に一人づついる気持ちになる、それがきれいな島ならいいけれど。

「島」は喩であり、一人づつ座っている机と椅子のことで、そこに各々の孤立感がある。しかしそれが「きれいな島ならいいけど。」という表記がすぐには理解され難い。孤独感や孤立感もきれいならばいい、視覚的、表面的なきれいさを井戸川は求めている。
「うん、」はおそらく自問自答だろう。自分に言い聞かせている。そして、いきなり場面転換される。

保健室の水道、勢い、ぱっと出るお湯に手を入れて、温かさと体だけでこんなに気持ちいい。

ここでも読点の使い方に特徴がある。身体的な安寧をうまく表現している。まず体が気持ち良くないと心が落ち着かないことを端的に表記している。

はい、と言うとカーテンが引かれる、黄緑で四角く仕切られていきなり僕の場所になる、囲まれて横たわる。ベッドでどんな顔をしてもあちらに見えない。ベルトがじゃまで腰を浮かしながら外す、見えるのは学校の天井だけ、熱とふとんからは誰かのにおいがして僕は安心して目を閉じる、無事起きられたらまた会える。

再び、保健室へと場面転換する。
カーテンで囲まれたベッドだけの空間、それは教室の「島」とも重複する。見えないことでの安堵感があり、布団の熱とだれかのにおいも、ぱっと出るお湯にしても身体感覚や肉体感覚だけで表記される言葉はダイレクトに読者に届く。また安堵感はのちに書かれている入院している母とも関連している。それは熱、誰かのにおい、お湯、温かさなどの表記からイメージされる。ここで、「誰かのにおい」には、誰かと共有したい、誰かと関わりたいという主体の思いを感じる。それは島の孤立とは異なる。孤立したうつくしさ、そして誰かと関わることは相反するようで底辺では結びついているのかもしれない。

母の病院へと向かう描写。

「一回転半、深呼吸したのを覚えている。」はここで、スイッチを入れている作者がいる。母を見舞うことは、自分の中のスイッチを切り替えることなのかもしれない。

手すりは下が柵になっていて、そこに白いカスや綿毛がたまる。軍手か何かはめて、指一本のすき間、す、と絡めとりたい。
ここにも、身体的な感覚を感じるのである。カスや綿毛を素手でなく軍手をはめて絡め取る。なぜか素手よりも身体的感覚を感じる。「す、」がそのまま身体的表記である。迷いをからめとるような、体の中の不要物を取り除くような、心の影を取り除くような、そんな読者が感覚に伝わる。

次は病院の売店、そして病院から帰る展開となる。

パジャマじゃないからみまい客の子どもが走っていて、それくらいしか判別できるものもない。連れられてパタパタ言わせて、僕も守られるべきものだったのを思い出す。音が、地面が笑わせてくれたころ、今だって、笑っていいのだな。
(略)
お腹、肌、頭と吐く息、いつか失くすけどなぜか今持っていて、僕のもの。一階に着くまでに泣き終われば、誰にも気づかれない。

見まい客の子どもを見ていて過去の自分へとフラッシュバックしてゆく。守られていたころ、それは孤独ではないし、島でもなかった。「パタパタ」から「地面が笑わせてくれた」へとつながり、「今だって、わらっていいのだな」と自分に言い聞かせている。
お腹、肌、頭と吐く息は歩道橋の柵をもイメージさせ、カスや綿毛を素手でなく軍手をはめて絡め取るべきもののようにも読める。

最後の文脈。
今日の母とのベッドを思い出す。ゴミ箱には一緒に食べたアイスの箱が入って、あの小さな窓から外を見て眠る。消えていくものは終わりが見える。こんなにはっきり、と思って平気な人たちを追い抜かす。

ゴミ箱のアイスの箱にリアリテイがあって、生ぬるさや臓器の粘膜、汚れた指先などを連想してしまう。それは母と主体の共有部分であり、そのことでしかもう母と一体になれないさびしさを感じる。かつては母の胎内にいて母と私は一体のものだったからだ。消えていくものはアイスの箱であり、母であり、私であり、平気な人たちなのかもしれない。それらは孤独で、きれいだ。平気な人たちを追い越して早く消えてしまうような映像をイメージした。

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