歌評(1)

何度目の漂着だらう海岸に打ち上げられてゐる日本語は(杉本なお/第37回静岡県短歌大会詠草集から)

「何度目の漂着だろう」だから何度も海岸に打ち上げられている。打ち上げられているのは「日本語」である。情報はこれだけである。従って、読者には色々な疑問が湧いてくる。
ここは何処だろう。そして、打ち上げられている「日本語」はどのような状態で打ち上げられているのだろう。また、なんという日本語の文字が書かれているのだろう。誰がいつどんな目的で、どこから流したのだろう。そして、どのくらいの頻度で、何回くらい打ち上げられたのだろう。
また、作者の立ち位置は、おそらく海岸に立っていると思われるが、船に乗って海側から海岸線を見ている可能性もある。季節や時間や天候は?季節はわからない、時間は日中であると思われるが、夜中の可能性もある。雨のイメージはないが、曇りのイメージもない。
それら詳細な情報は一切語られておらず、全ては読者のイメージするところに委ねられている。だから、どのように読み進め、そして鑑賞しても容認されうるのである。
また一方、この歌は何かの暗喩になっているのかもしれない、という思い(不安)も過ぎる。海の向こうから発せられる政治的なメッセージを思い描く。また、時空を超えて、過去や未来から発せられたメッセージのようにも連想される。
歌を読んだ瞬間から、どのような意味があるのかとか、何かの暗喩なのだろうとかとかを探り始めると、歌を解釈することに夢中になってしまい、最終的に自分なりの解釈で決着をつけないと落ち着かないのである。そうやって歌の解釈を決めつけてしまうと、その歌はイメージが固定されてしまって、こじんまりとした小さな歌になってしまう。いわゆる、歌が矮小化してしまうのである。

私はこの歌に書かれている文脈を素直に読み、その少ない情報を頼りに、頭のなかにその情景を描きながらこの歌を鑑賞したいと思う。
その茫洋とした海を望む海岸に立っていたら、日本語が漂着して打ち上げられたのである、それも何度目か。その不思議な風景をぼんやりと頭のなかに描きながら、文脈を解釈しようとしないで、歌にある情景をそのまま鑑賞してみるのだ。そう、絵画を鑑賞するように。すると、自身のなかでわずかに心は揺れはじめ、少しの風が吹いてくる。

平成という最後の年にわたくし一読者の立ち位置から、わたくだけの情景が芒と浮かんでくる。
日本海の何処かの海岸で、遠い水平線の向こう、はるかな北の国を見つめている。漂着する「日本語」は、何かに書かれたものではなく、向こう側から発せられる日本人のメッセージ(声)として想起される。それは祈りのようでもあり、懇願のようでもあり、怒りのようでもある。そんなことを、仄かに連想しながら、私はこの歌を鑑賞している。
政治の力ではなく、人と人との言葉のつながりでしか解決されないのだろうということを確信しつつ、またひとつ色を失くすのだろう。

饒舌で説明的な歌が氾濫するなか、多くを語らず、少ない言葉で読者のイメージを幾重にも揺曳させる、この歌を秀歌としたい。
(歌評 白井健康)

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