詩について思っていること、、、

石松佳さん、竹中優子さんの詩を読んで、ふと考えたこと、、、、

心の問題を心の言葉で提示してもなかなか理解し難い。心や精神の問題を物質や事象の言葉に置き換えて提出することによって、あるいはテクストからテクストへ飛躍を与えることによって、それらに閉じ込められている心の言葉を、社会機構に従って探ることができるようになる。詩は解答ではなく、問題を読者に提出するアイテムであって、読者は詩を読むことで、いくつかの解答のどれかを選びとるようになる。このことが詩人と読者との永遠な関係をもたらすのではないか?わたしは、飛躍こそが詩の醍醐味ではないかと考えています。ピエール・ルヴェルディやブルトンのイマージュ論の概念、あるいは俳句だと二物衝突なんかを想起します。また、ベルクソン哲学における「自由」の概念もそのことに近いのかもしれません。

詩歌における解答は既に潜在的に認識されていて、その原型は先生(作者)の書類綴りの中に収められている。詩は先生(作者)が見せてはくれない解答を仄めかすパズルのようなもの。つまり、先生(作者)に与えられた役割とか態度は、生徒(読者)が問題の解答を考えながら、 先生(作者)の指導用綴りのページに書いてある解答をちらりと盗み見しさえすればわかるようなものではないか?詩の真相は、問題を解決することよりも、問題を見出すこと、問題を提出することが役割ではないか?問題の解答は隠れていて覆われたままになつているとしても、その時に実在しているから、その「覆いを除き」(発見し)さへすればいい。しかし問題を提出する(詩を提出する)ということは、発見だけではなく、 発明することであって、発見は現実的にも潜在的にも既に実在しているものに向う。ところが発明はそれまでなかつたものに存在を与える(飛躍は、それまでなかったものを提示する)のであるから、いつまで経ってもそこまで辿りつかないことだって往々にしてありうる。生徒(読者)は無理やり解答を探ろうとせず、飛躍によって提示されたイマージュの閃光を楽しめばいいのではないか、、、解答は口中の飴玉のようにゆっくりととかしていけばいい、最後に溶けなくなって芯が残っても、それはそれでいい、、、解答を探り当てる目的なんてあんまり意味がないし、口中で飴玉を転がすことが詩を読むということ、その行為が「詩作」なのかもしれない。

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