【聴く小説】『極楽への帰路にして、僕は君を想う』

こちらも音声読み上げソフトで小説を読み上げてもらってます。


20分とちょい長めなのでお暇があればどうぞ。

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『極楽への帰路にして、僕は君を想う』

郁美ちゃんが作った精霊馬に乗っかって、もう死んでしまった僕はえっちらおっちらと極楽へと向かっている。

新盆を迎えている間、僕は郁美ちゃんの家で昼も夜も普通の大学生のように過ごした。幽霊は夜しか化けて出られないと思ったら大間違いだ。

ソファーに座ってアイスルイボスティーを飲みながらたまごクラブをめくる郁美ちゃんの横で、ふーんとかへーとか妊婦さんてたいへーんとか相槌を打ったり、夜中に稲川淳二の動画を再生してふたりでジュンジナイトのモノマネをしたり、カラオケに一緒について行き、ハウリングが軽減されるように念を送ったりした。

狭い1Kの部屋で過ごした、くだらなくてばかばかしい、でもいい夏だった。

郁美ちゃんは盆に僕を迎え入れるにあたって2匹の精霊馬を事前に工作してくれた。

極楽から下界にくだるための馬にはズッキーニを用い、極楽へ帰るための牛にはオクラを使用したと聞いた時には、この子、頭沸いてんじゃないのと本気で思った。人の乗り物をおもちゃにすんじゃないよ。

下界にくだるとき、ズッキーニの馬がそれはもうとんでもない跳ねっ返りで、馬といえばラウンドワンに置いてあるロデオの乗り物くらいしか乗ったことのない僕は、馬から振り落とされないように手綱を握りしめるので必死だった。

なんとか郁美ちゃんのマンションに辿り着いたら、案の定彼女はにやにやして僕を出迎えた。なんだよ人の苦労を笑ったりして。

僕は郁美ちゃんが趣味で小説を書き、ウェブサイト上に掲載していることを知っている。極楽にもWi-Fi環境があるので気が向いたらたまに接続して閲覧している。

そもそも僕と彼女は八王子市内にある同じマンモス大学の3年生で、僕は理学部生物学科、彼女は文学部日本近代文学科の専攻だった。補足するまでもないが、僕は死んじゃったので今は大学には通ってないし、彼女は出産と育児をするにあたって一旦休学し、いつか復学する予定だと言っていた。

これは、僕の生前と死後直後四十九日までのお話。

僕らの通っていた大学は学科ごとにウェブサイトが開設されており、個々に割り振られたIDとパスワードが分かればログインできる仕組みになっている。学生同士のコミュニケーションを図る一環として設けられていると入学時に説明を受けた。

生物学科のサイトは生物学に関する疑問を書き込む項目や、今後取り組みたい研究の共同研究者募集などのコンテンツが主なものだ。

一方日本近代文学科のサイトは本や映画の評論、自身が書いたオリジナルの小説やエッセイ、短歌、詩などの投稿と閲覧が可能だ。

生前、僕と郁美ちゃんが付き合ってるんだかそうじゃないんだか曖昧な感じの関係だった頃、彼女が小説を書いていることを知らされた。

ふーんそう、とその時は適当に相槌を打ったが、郁美ちゃんと今年の4月に別れたあと、僕は内心でかなりヒヤヒヤしていた。正確には別れたのではなく、一方的に僕が関係を終わらせたからだ。

僕は根っからの飽き性だし、ひとりの女と継続して付き合うのは好きじゃない。それに面倒くさい女は最初から付き合わない。関わりたくない。
やりたいことができたらひとりで行動したいし、男友達とはいつでも馬鹿騒ぎしたいし、肌恋しくなったらまた女を抱きたい。
そう思う僕を人は自分勝手が過ぎると吐き捨てるだろうか。そうかな、今の大学生ってそんなもんじゃない?

そんなわけで小説家気取りの郁美ちゃん、まさか僕との関係を私小説的に書いたりしていないよな。
実名を出されて赤裸々に書かれたら、それこそ日本近代文学科の人間から総スカンに合いそうだ。郁美ちゃんの責任取ってちゃんと付き合えとかなんだとか。外野がやいやいうるせえよ。

別れた後も学内のカフェテリアで郁美ちゃんを見かけることがある。その日は僕も郁美ちゃんもバターチキンカレーセットを注文した。カフェの名物料理。別れても僕は普通に女の子に話しかけちゃう。え?デリカシー無い?っていうか最初から僕たち恋人じゃないし。

学内で僕が話かけると郁美ちゃんは少し悲しそうに笑う。話している最中に目をそらしたりする。
僕と話して気分が悪くなることもあるのか、男女の関係じゃなくなってから、郁美ちゃんは会話するときはいつもハンドタオルを持参しているイメージがある。時々、四角く折りたたんだタオルを口元に当てている。なに、そんなに僕のこと嫌い?
僕は郁美ちゃんに話かける。

「僕さ、わりと小説読むんだよね。又吉のとか。ノルウェーの森とか。桐島が部活やめたやつとか。郁美ちゃんの小説、僕も読みたいなあ」

そう言って、郁美ちゃんのID、パスワードとハンドルネームを聞き出そうとした。
郁美ちゃんは一瞬真顔になってから、顔を崩して笑った。相模くん、本当は本なんて全然読まないでしょと答えてからいいよ教えてあげると言い、ログインに必要な情報とハンドルネームを教えてくれた。
あれ、なんで僕が本読まないってわかったんだ?それにしても郁美ちゃん、パスワード等の管理体制甘すぎじゃない?

バイト先から帰宅後、ベッドの上に横になってスマートフォンを操作して、日本近代文学科のサイトにログインする。アクセスが完了し、画面が開く。
左側に表示されたメニューのうち、「投稿作品」のボタンをタップする。次の画面で表示させる項目を絞るため、プルダウンを「投稿者一覧」に変更して画面が切り替わったところで郁美ちゃんのハンドルネームをタップした。

彼女の投稿作品は30余あり、作品名をタップすると投稿作品が表示される。初めから終わりまでひとつずつリンクを開いていく。その文章にざっと目を通すと、投稿作品のいくつかには明らかに僕をモデルにして描いている作品があった。
やっぱりね。郁美ちゃん根暗だから、こういう書き方すると思ったよ。

「彼はあたしの右手のなかに」というタイトルの掌編小説なんて、仮名を使ってはいるのものの、ほとんど僕の話じゃないか。え?なに妊娠?またまた冗談でしょ?
この前別れ際に妊娠したって郁美ちゃんから聞いたけど、あれ絶対別れたくないための口実だと思うんだよね。

画面に目を通しているうちにだんだんと腹が立ってきた。ムカついたけど、せっかくパスワードを聞いたのだから時間をかけて端から端まで彼女の投稿作品を読み切ってやった。
郁美ちゃんの小説は普段本を読まない僕でも稚拙だと判断できるほど、その構成力や語彙力、物語の展開などどれも至らないものばかりだが、意外と最後まで読めてしまうのだから不思議だ。

僕が郁美ちゃんに苛立っているのは僕をモデルにして彼女の専攻学科サイトに掲載したことに対してだけではない。僕らしき人物を小説に登場させることで郁美ちゃんの気持ちを間接的に僕へぶつけようとしていることが気にくわないのだ。

付き合ってくれないことに不満を感じているのなら、ワールドワイドに間接表現するのではなくて、直接僕に言えばいいじゃないか。

僕に愛して貰いたいならそう言えよ。僕と寝たいなら自分から誘えよ。いつまでも待っている女でいるんじゃねえ。

僕をモデルにした郁美ちゃんの作品には次のような一文がある。

「付き合ってとか愛してとか、私のこと好き?とか聞いてこないのがいい。そういう女は総じて東京湾に沈めたい。」

これは完全なる誤解だ。僕は女に愛してと言われたら東京湾に沈めたいと思うような人間じゃないよ。
むしろ逆で、自分のことをきちんと自分で表現できる人間と付き合っていたいだけだ。

この時僕は東野茉里と付き合い始めていたが、付き合うきっかけになったのは茉里からぐいぐいと迫られたからだ。女のくせに男みたいな口調で、私相模くんと寝たいなと言ってきた。変な女だと思ったけどそれが面白くて付き合い始めた。きちんと自己主張する女。気が強くて、喧嘩も強くて、寝る時だけ女に様変わりする変な女。

いつまでも受け身でいる人間となんちゃってで寝ることはあっても、魅力を感じることはできないから付き合わない。
受け身な自分のことを「ドライな私」と良い様に解釈するプラス思考が本当に頭ん中お花畑過ぎて好きになれない。

「私、とっても傷ついているの」

「相模くんにも、私と同じだけ傷ついてほしいの」

郁美ちゃんの文章はそう一生懸命僕に語りかけてくる。でも僕は完全無視をしてやる。

文章上でしか自己表現できない、傷つくことが嫌だから本人に直接気持ちを伝えることができない甘ったれのかまってちゃんにレスポンスくれてやるほど僕は優しくないよ。
ちゃんと正々堂々、真正面から言葉に出して伝えてくれたら答えてやるよ。

ふん、と鼻を鳴らして画面をスワイプして閉じた。

そんな理由から生前の僕は郁美ちゃんのことがそんなに好きじゃなかった。

僕が郁美ちゃんに心底惚れたのは僕がバイト先の女子社員、三石さんに包丁で刺殺された後からだ。

人間が死んだあと四十九日の間、好きな場所に化けて出られると思うだろ?
僕もそう思っていた。でもそうじゃなかった。
僕のことをいちばん思っている、念の強い人のもとにしかいけないのだと極楽の窓口担当者に告げられた。なんだそのクソみたいなシステム!と窓口担当者に言ったけど、じゃあ、下界、行くのやめます?と突き放されてしぶしぶ納得した。
その、いちばん強く僕を思ってくれていたのが郁美ちゃんだった。
僕のこと、両親より郁美ちゃんのが強く思っていたなんて、なんかショックだ。
というか、幽霊の僕よりずっと郁美ちゃんの存在自体がホラーだ。僕の小説を書くわ、念力が強いわ、おぞましい女だよまったく。

僕の生命が絶たれ、日も暮れ、郁美ちゃんのマンションに到着すると彼女の両親がソファーに腰をかけ、ラグの上に座る彼女をねぎらうように話しかけている様子が垣間見れた。

あれ、小説では郁美ちゃんのご両親は他界していて、遺産があるとか書いてなかったか?もしかしてそこはフィクション?
だよな、なんかその掌編小説、うまい具合にラストを落とそう落とそうと書いて全然うまくなかったもんな。ずいぶんと安直な終わり方だと思ったよ。
郁美ちゃんのママが彼女のお腹を撫でる。パパが緑茶を湯飲みに注ぐ。家族水入らずの中、僕、覗き見しているみたいでなんかすみません。

郁美ちゃんがご両親を玄関まで送ったあと、ひとりソファーに座る。お腹をゆっくり撫でて深呼吸をする。ふと、こちらに目を向けて、ハッと目を見開いた。

「え?相模くん?」

「あ、はい」

郁美ちゃんは僕を舐めるように下から上に眺めた。

「なんで?」

「なんでって何が?」

返事をすると郁美ちゃんは眉間に皺を寄せて叫んだ。

「なんで私のところに来たの!」

「そっちが呼んだんだろ!」

郁美ちゃんはソファーの上に置いてあるクッションを掴んで僕に投げつけた。僕は幽霊なのでクッションは僕の体をすり抜けてキッチン近くに落下した。なによ、暴力反対。

「呼んでないし!地獄に帰れこのやり逃げ野郎!」

もう極楽に帰りたいです。

「それにっ、茉里のところにはいかないの?あんたの彼女は茉里でしょうが!」

今度はテーブルに乗っている雑誌を投げつける、鉛筆を投げつける、緑茶の入った湯飲みも投げつけてフローリングに落ち、ばりんと大きな音を立てて割れた。やだこの子怖い。

「どのツラ下げて茉里に会いに行けっていうんだよ。他の女と寝てたってバレたら僕、また刺されちゃうだろ!」

そう返すと郁美ちゃんはぼろぼろと泣き始めた。ちょっと、あーた、情緒不安定過ぎない?

「それいうなら、私にだってどのツラ下げて会いにきたのよ!」

鼻水を垂らしながらしゃくりあげて彼女は泣いた。こんな惨めな人間らしい面も郁美ちゃんは持っていたのかと妙に感心しながら、割れた湯飲みの破片を持ち上げられるか試してみた。
わぁ、やっぱり指が透けて物を持ち上げられないや。

「郁美ちゃんには悪いことしてないつもりだけどな」

だってエロいことも合意の上でしたじゃんとぼそりと呟くと

「相模くんとして、してる最中ゴムが外れて、結果、妊娠しましたけど」

と背筋がゾッとするようなことを言われ、振り返った。
確かに郁美ちゃんと別れる時、妊娠したのと言われた。僕はそれを嘘だと決めつけていた。そのあと会うたびに気分が悪そうにしていた。掌編小説でも妊娠7週目だと書いていた。僕が読むことを知っていて、わざとわかるように書いていたのか。
先程、郁美ちゃんの両親は彼女の腹を撫でていた。少し腹がふっくらしている気もする。
いつもより情緒不安定な郁美ちゃん。
性行為中に避妊具が外れたのも事実だ。
全部、辻褄が合う。
僕、パパになるはずだったの?付き合ってもいない女の?

多少の罪悪感もあり、それから計49日間、ぶっ続けで郁美ちゃんのそばに居続けることにした。

彼女のそばに居てわかったことがある。郁美ちゃんは簡単に根を上げない。愚痴を言わない。ギリギリと歯を食いしばって限界まで我慢をするタイプの女だった。僕に湯飲みを投げつけたのはきっと我慢の限界を超えたためだろう。

彼女が両手にいっぱいにスーパーの袋を持って急な坂道を歩く時、ずんずんとリズミカルに坂道を登っていく。額には玉の汗がキラキラ光る。米、醤油、味噌。なんで一気になくなるのか。なぜ一度に買うのか。妊婦がそんなに重たい荷物持って大丈夫?と聞いても、相模くん、手伝えないなら黙っててと一蹴された。大学で会う時にはわからなかったけど、彼女は毎日をきちんと生きている。腹のなかに宿した生き物と共存しながら、生きている。食事を作り、掃除と洗濯をし、買い物をし、排泄し、大学に行き、バイトをして、ヨガをして、風呂に入り、パソコンに向かい、就寝する。あたりまえのような生活だけど、地に足をつけて実直に生きている。

僕が郁美ちゃんの前に現れて2日目の深夜、彼女の情緒がまた大きく崩れて泣き喚いた。文字通りうわーんと涙を流し、鼻水をダラダラ垂らしながら僕に向かって「何で死んだんだよ馬鹿野郎!」と罵倒した。

「私、相模くんに振られて傷ついたんだからね。なんで振られたのかわからなくて沢山悩んで考えてそれでも答えがわからなくて、ご飯食べられなくなって、5キロも痩せたんだからね!
子供も、降ろすかどうか、本気で迷ったんだよ。子供ができたこと、最初は誰にも言えなくて、吐き気も酷くて、茉里にも親にも言えなくてもう死んだほうがいいのかなって考えたりしたんだよ!
相模くん、なんで私の話をちゃんと聞いてくれなかったの!そんな不誠実な生き方してるから、女に殺されるんだよ!」

一気にまくし立てて喋り、壁を右手の拳でどん!と強く殴った。はあはあと肩で息をする郁美ちゃん。顔が紅潮している。全身で怒りを表現している。なんだ、自己表現、やればできるんじゃん。

ちゃんと話聞かなくてごめん、と頭を下げて謝った。でもそれ以上何も言えなかった。どう謝っていいかもわからなかった。死んでお詫びをしたいけどもう死んでるし。

実体の無い僕に対してこれほどの気持ちをぶつけてくる郁美ちゃんだが、生きている人間にはとんと歯向かわないから不思議だ。

大学で同級生から嫌味を言われてもバカにされても言い返さない。避妊しないで寝るなんて頭おかしいんじゃないの。男に遊ばれて逃げられてアホなんじゃないの。
他者から批判を受けたときの郁美ちゃんの目はギラギラと血走っていて狂気を感じて逆にそそられる。

妊娠している今なら生でやっても大丈夫だよね、なんてありえないことを言ってくるバイト先の先輩。郁美ちゃんの顔は青筋立って、「死ねばいいのに」という文字が顔面に浮き上がっている。
奥歯をギリギリと食いしばる音が聞こえてきそうだ。いいね、もっと。

郁美ちゃんは自宅に帰ると冷蔵庫に食品を突っ込んで、着ている服を洗濯機にぶっこんで、ショーツだけの姿で、パソコンの電源を入れる。

「ちょっと、妊婦がなにやってんの。風邪引くよ、服着なよ」

と言っても

「うっとおしい!」

と僕に向かって暴言を吐く。随分つんけんしてるなあ。死んでるからって傷つかないとでも思うなよ。

パソコンを起動させてWordを開くと、郁美ちゃんは乱暴に文字を打ち込んでいく。バチバチバチバチ、エンターキー、ターン!
ぎらぎらとした目でモニターを睨みつけながら物凄い速さで殺気立ちながら入力を続ける。こんな顔をしながらあの小説を書いていたのか。

怒りと情熱。いつも受け身な郁美ちゃんからは想像できない鬼のような表情をしていた。「ドライな私」の郁美ちゃんなんてどこにもいないじゃないか。自分のことをかっこよく描きすぎだよ。生きている郁美ちゃんは、どろどろしててダサくて生々しい、体から喜怒哀楽が滲み出ている、とっても魅力的な人間じゃないか。どうせなら生きているときに知っておきたかったな。

「なあ、僕の子供が風邪をひくと困るんだけど」

そう投げかけると、ふとこちらに向き直って

「僕の子供って認めてくれるの?」

と言い、にたりと笑った。
やはり、郁美ちゃんは既存の幽霊より遥かに恐ろしい。

Tシャツとハーフパンツに着替えた郁美ちゃんはそれから深夜遅くまでパソコンに向かい続けた。彼女の感情は言葉より指先で表現するのが得意だという事がよくわかった。決して受け身でいるわけではない。爆発的に溢れ出る感情を口頭ではなく文字で表現したいタイプなのだろう。

それからの郁美ちゃんと過ごす日々は生きている時よりもずっと鮮やかで生き生きとした日々だった。

ある1日は郁美ちゃんから僕への不満を朝から晩まで聞いた。すべてに耳を傾け素直に頷いて、おっしゃる通りとか、いやそこは補足説明したいと付け加えてお互い洗いざらい話し合った。
変なの。死んだ後の方が郁美ちゃんのことを理解している気がする。郁美ちゃんのこと、もっと知りたいと思う。それは郁美ちゃんも同じだと思う。彼女の顔を見ていればわかる。

また別の日は幽霊の僕になにができるかの実験をした。コンパクトデジタルカメラに額をつけて、郁美ちゃんがシャッターボタンを押す瞬間に僕の念じたものが撮影できるかとか。できなかったけど。
五感の中で機能しているのはどれかとか。視覚と聴覚だけだった。
郁美ちゃんが横になって、そこに重なるように僕が横たわり、そして僕がゆっくり上半身を起こし「幽体離脱〜」とザ・たっちの真似をしたら郁美ちゃんが爆笑してくれて良かった。死んだ甲斐がある。

ふたりの仲が良かった頃の話もした。性行為中に郁美ちゃんの左足の裏がつってそれどころじゃなかった話。快感と痛覚だと痛覚の方が断然まさるって話。郁美ちゃん、運動不足甚だしかったねと笑った。

まだ通学していた頃、共通で履修している講義中にお互い片方の靴を脱いで、裸足で足を絡ませて遊んだこと。あれ、色っぽくてよかったよね。

郁美ちゃんはiPhoneで音楽を鳴らしながらごきげんに料理をする。ふんふんと鼻歌まじりにレタスをちぎる、トマトに包丁を入れる、コーン缶を開ける。曲に合わせて僕もフゥーと合いの手を入れる。今日はとろとろのチキンカレー。
シーフードや野菜メインのサラサラおしゃれカレーなんて邪道。ああ、カレーのスパイシーな香りを嗅ぎたい。ガランマサラを振りかけて、カレーを食いたい。こんなとき幽霊でいることが悔やまれる。

幽霊は鏡に姿が映らないから気づかなかったけど、僕は口から血を流しているそうだ。それから左胸に包丁が刺さってるけど痛く無いの?と郁美ちゃんに聞かれて下を向いてはじめて気がついた。うわあ、まじで包丁が刺さってるよ。痛く無いけど物騒すぎでしょ。

郁美ちゃんに、ねえ包丁抜いてくれない?とお願いしたけれど、うんと頷いた郁美ちゃんの指は僕の体を通り抜けて、空をつかんだ。

このとき改めて僕は死んでいるんだと実感した。あれだな、好きな人に体を触ってもらえないって寂しいものなんだな。

今日でちょうど、僕が死んでから四十九日目を迎える。郁美ちゃんと僕の子供が安定期に入ったと言っていたので、この子に名前をつけたいなと思いついた。子に何ひとつ満足に遺せない僕だが、せめて名前だけでも与えたい。郁美ちゃんの今後の人生に関わりたいと思うのはエゴの極みか?

この前産婦人科に一緒について行った時、超音波エコーのモニターを見た先生が胎児の性別は十中八九男の子だと言った。

半分僕の血が入っている子供はやっぱり好き勝手生きてしまうのだろうか。もう半分の郁美ちゃんの血の力で地に足をつけて生き抜いて欲しい気もする。
子供には郁美ちゃんに対して誠実な生き方をしてほしいな。これも自己中心的過ぎる思考かな。

郁美ちゃんをベットに横たえて上から覆いかぶさる。さらさらとした長い髪がシーツに広がって、綺麗だ。

「僕たちの子供、名前を誠一にしてくれない?」

「わかった」

と頷いて、郁美ちゃんはいままで見た顔の中でいちばん優しく笑ってくれた。

これが僕の生前と、死後四十九日間の回顧録だ。
このあと新盆を迎えてもう一度郁美ちゃんの前に化けて出て盆を過ごし、今は郁美ちゃんが作った精霊馬に乗って、ちょうど極楽へ帰っている道中だ。

オクラに脚をつけられた精霊馬はヤギとロバを足して2で割ったような動物として召喚された。弱々しい足取りでいつになったら極楽につけるのかほとほと想像がつかない。

でも、と僕は思う。
郁美ちゃんが味わった痛み、恐怖、怒りをたっぷりと僕も受け止めようと思ったからこれくらいの苦労はどうってことないよ。

僕に気持ちを振り回されて、人生に大きな歪みが生じ、それでも発狂することなく普段通りに生活する郁美ちゃんを今は心から尊敬する。

極楽への帰り道、君をたくさん想いながら、君と誠一の幸福を祈りながら僕は極楽に召されるよ。南無阿弥陀仏。

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