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「ひっぱり蛸の夜」

ひどく落ち込んだ夜だった。

会社の帰りに立寄ったスーパーで駅弁フェアーが催されていたため、目ぼしいものがあるか探したが、牛タン弁当やイクラ丼といった人気の駅弁はすでに売り切れていた。やはり今日はついていない。

別の弁当に妥協するか、と駅弁フェアーを離れようとした時、ふと蛸壺の形をした「ひっぱり蛸」と書かれた弁当が目に入った。陶器にたこの炊き込みご飯が詰められている弁当で、小さい割に1000円と割高のため、いまいち主婦層からは人気が無いようだ。蛸壺がいくつも並んでいる姿は可愛らしくもあり、どことなく哀愁も漂っていたため、ひとつ手にとり、かごの中に優しく横たわせた。

自宅に戻り、ストッキングを脱ぎ、ブラウスもスカートも脱いで部屋着に着替える。メイク落としシートでべたべたに塗りたぐった化粧を丁寧に拭き落としてゆく。全部脱いで落とすことで日中に隠していた自身の感情が内側からにゅうと現れる。
今日言われた嫌なこと、先週あった胸糞の悪いことが毛穴からにゅるりにゅるりと這い出て、気分が悪くなったわたしは、たちまち心の中で毒づいた。全ての負の出来事よ、宇宙のゴミになれ。明日になったら全員まとめて爆発しろ。

強気なことを思えるのは自宅にいる今だけなのは分かっている。誰にも攻撃を受けることのない、反発されない今だけなのは分かっている。

情けなさと悔しさのあまり、鼻の奥がツンとした。あなたに何があったの?と探りを入れる人は、単に面白がりたいだけだから絶対に教えない。

袋から出した「ひっぱり蛸」の陶器をテーブルに静かに置き、缶チューハイのプルタブを引く。いただきますと誰にも聞こえない小さな声を発してから、ごくごくと喉を鳴らして酒を飲んだ。

最後のひと粒まで美味しく頂いた「ひっぱり蛸」の蛸壺を洗剤で洗って布巾で水滴を拭きとったのち、壺の底をまじまじと観察した。

わたしも壺の中に入ることができればいいのに。物語の主要人物が壺から出たがった話はあるけれど、壺に入りたい話は、はてあったかしら。
もしあったとしたら、秘密の呪文はきっとこうだ。

「ちゅうちゅうたこかいな」

口にした途端、目の前が真っ暗になり、辺りはジョイのレモンの香りが漂っていた。両手で壁側に触れると、多少のザラつきを感じ、側面はなだらかなカーブを描いていた。一寸先は闇のため、わたしの体は見えないが、暗闇の中で両腕に触れた時、多くの吹き出物の感触があった。もしかしたらわたしはタコアレルギーだったのかもしれない。まだ痒みや窒息する感覚はない、だいじょうぶ。

そうか。わたしは望み通り蛸壺のなかに入れたのだろう。うんうんと2回頷いて、蛸壺のちょうど真ん中で体育座りをした。
あー、っと声を出すといい具合に音が反響して心地よい。ところで先ほど普段着に着替えたはずだが、ごわごわしたかさばるフレアスカートを履いている気がするのは何故だろう。
蛸壺のなかは摩訶不思議な出来事が起こる、そんなものなのかもしれない。壺に入っては壺に従え、だ。

真っ暗な壺の中、何もすることがないから、お歌でも歌いたい気分になった。「まっくら森のうた」と、「僕らが旅に出る理由」と、「ぞうさん蜘蛛の巣」を歌ったところで眠気が襲ってきたので壁に背をつけ眠ることにした。

明日、わたしはどうなってしまうのだろう。
もう会社にはいかなくてもいいのかな。
餓死ってやっぱり辛いのかな。
ジョイのレモンの香りの中で、頭上からわたしの名を呼ぶ恋人の声も耳に届かないわたしは、すやすやと蛸壺の底で眠りについた。

#小説 #川上弘美リスペクト  



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