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秘密基地にて羽化する僕は

「ねえ、きょう夕ご飯の後に秘密基地で遊んでもいい?」

きゅうりをトントンと細切りにしているお母さんに上目遣いで訊ねてみた。
秘密基地というのはぼくのおうちの押し入れのことだ。

普段は昼間、押し入れにゲームや落書き帳やお菓子を持ち込ち、謎の敵Xを倒す作戦会議をたったひとりで企てたり、暗がりの中でジェリービーンズを一粒ずつ口に放り込んで目をつむり、じっくりと遠くアメリカのお菓子屋さんを想像して科学的な味を楽しんだりしている。

小学1年生のぼくはまだ自分の部屋を与えられていないから、洗濯洗剤の匂いと芳香剤のにおいのする押し入れのなかでひとり物思いにふける。
唯一ぼくがひとりになれる場所がこの秘密基地なのだ。

「だめよ、今日は暑いから。太朗ちゃんが押し入れに入るとふすまをぴったり閉めちゃうでしょう?
そうしたら息が詰まってめまいがしてそれから倒れちゃうわ」

お母さんはお湯がぐつぐつと煮える鍋にもやしをどさっと投入して菜箸でわしわしと混ぜる。
コンロ付近では湯気がもうもうと立ち込め少し近寄っただけでじっとりと汗が吹き出してくる。

「そうだよ、秘密基地だもの。じょうほうろうえいしたら困っちゃうから当社のセキュリティシステムは万全にしなくちゃ」

「あらあらそんな難しい言葉どこで覚えたのかしら。それよりミニトマトを半分に切ってちょうだい。終わったら卵焼きを細ーく刻んでね」

ぼくはお母さんからまな板と子供用のナイフを受け取ってリビングのテーブルでミニトマトにとりかかった。

お母さんの教育持論は「こどものうちから家事に積極参加させること。それが後々のこどもの為になる」で、とにかく何でもかんでもできそうなことはぼくにお手伝いさせるように仕向けてくる。
洗濯物干して、畳んで買い物行って。お風呂掃除や、掃除機かけ、網戸を拭いたり、お母さんの白髪染めを塗ってあげたり。

ぼくがぼんやりテレビを見ているとなんだかんだとお手伝いを頼まれてしまう。
だからお手伝いの時間と宿題の時間を差し引いたときのぼくの自由時間は案外少ない。

そして、秘密基地についてはお母さんを説得することをあきらめてお父さんに頼んでみることにした。

「ねえ、お父さん今日の夜、秘密基地で遊んでもいい?もう夏休みの宿題は全部終わって、こうして夜ご飯のお手伝いもしてるし、お風呂ならさっき入ったよ」

とりあえず先手必勝作戦を実施してみることにした。倒れろ!怪人X!

お父さんはえ?え?と二回驚いてからあぁ押し入れかと呟き、キッチンのお母さんに「なーあ、サキ、太朗が押し入れ行きたいってー!別にいいよなあ?」と間延びした声で呼びかけて許可を取ってくれている。ありがたい、もう一押しだ。

「だーめ、熱中症になる!」

ラスボスは手強いがXもなかなか頑張ってくれる。
「そうだ、サーキュレーターあるだろ?俺の仕事部屋にさ。あれ持って、アイスノンで首冷やして、ポカリ持って入ればいいじゃん」

もーう、じゃあ勝手にすればっ!とお母さんが言うや否や、もやしに続いて茹で上がった麺をざるにいれラーメンやようにちゃっちゃと湯切りをした。太朗ちゃん、トマトと錦糸卵早くー!の催促の声。

「お母さん、秘密基地で冷やし中華食べてい……」
言い終えぬうちにダメに決まってんでしょ!あんたいい加減にしな!と雷が落ちた。

「まあ……プチ探検気分が味わえるからな。お父さんはなんとなく太朗の気持ち、わからんでもないよ。冷やし中華を持っていくのはさすがに微妙だけどな」

やけにぼくの肩を持ってくれるお父さんがうれしくて、夕ご飯のミニトマトをぜんぶお父さんにプレゼントした。本当はぼくがトマト苦手なことは内緒。

押し入れの中にサーキュレーターを持ち込んで、懐中電灯とアイスノンとポカリと何冊かの絵本とオルゴールと、海で拾った大きな巻貝と、ココアシガレットを入れた洗濯カゴを搬入した。

サーキュレーターの電源コードが邪魔でふすまがぴったり閉まらないけど今日は勘弁してあげる。

寝室の電気を消して、秘密基地に足を踏み入れる。真っ暗な基地内にウィーンとサーキュレーターの音が響く。お布団の敷いてある寝室とはたった数センチの隔たりなのにほんのちょっぴり不安になる。

次にこのふすまを開けたらお父さんもお母さんもいないのではないかと変な妄想をして少しだけ心配になる。


だけどその心配がぼくの冒険にはとても大切なスパイスなのだ。大事なものを置いてぼくは過酷な冒険には挑むのだ。

首筋を冷やすアイスノンが心地よい。懐中電灯のスイッチを入れてお気に入りの絵本を開く。「めっきらもっきらどおんどん」の不思議で不気味で美味しそうな世界にぼくはワープして、登場人物になりきって大きな縄跳びを跳ぶ。おとなはどこにもいないこの小さな空間で、ぼくはしっかりとおとなへと羽化していくのだ。

絵本を閉じてココアシガレットのパッケージを剥ぎ、シガーを一本抜き取ってかっこよく煙を燻らせる、そんな雰囲気を存分に味わってみる。

シガーをスーパーかっこよくふかせるぼくの姿を杏ちゃんに見せたいけれど、女の子っていつだって自分や友だちとのことで忙しそうで、ぼくたちのことは横目でチラリとみては「ばかじゃないの」とか「先生にいいつけるよ」「男子ちゃんとやって!」とかしか言ってくれない。

割とぼくはまじめな気持ちで杏ちゃんが笑ってくれたらそれでいいな、なんて思ってサービス精神でやっているだけなんだけどな。

こどもであるぼくたちは男と女で初めから分かり合えなくて、お父さんとお母さんを見る限り大人になっても分かり合えない部分も多いみたいだ。

ふとお父さんに巻いてもらった腕時計(ぶかぶか)にライトを照らしたらもう10時30分だった。
ぼくのうちでは小学1年生は10時には部屋の電気が消されてしまう。まずい、鬼が来るとそわそわしていたら案の定ふすまがばっ!と開いて

「太朗、もう寝な」

顔全体に美容パックを貼り付けた鬼……ではなくお母さんが仁王立ちしていた。

「お父さんにサーキュレーターありがとう、って言って返すんだよ」
コンセントを抜いてコードをぐるぐる巻きにしたサーキュレーターをぼくに押し当てる。

お父さんの仕事部屋に入ると、天井一面に星の画像がプロジェクターから投影されていた。その景色があまりにも圧巻で美しく、サーキュレーターのお礼も忘れて口をぽかんを開けてただ夜空を見つめていた。

「綺麗だろ?夜空の力って圧巻だよなあ。お父さん、すんごい嫌なことあるとここにこもって好きな画像を投影して、その世界にしばらく浸るんだ。そうすることで、自分が自分でいられる気がするんだ。……なんて、太朗にはちょっと難しいかな?」

ぼくはぶんぶんと頭を立てに振った。だってお父さんがしていることは、さっきぼくがしたこととほとんど同じことだったから。
「狭い秘密基地の中にいると、自分の中にいる自分とお話ししているみたいで、それがすごく楽しい」

それを聞いたお父さんは一瞬驚いた顔をしてから目尻を下げて口角をにゅっと上にあげた。

「太朗、秘密基地でポカリ飲んだ?」
ぼくはふるふると顔を振った。
お父さんは頷くと、木製の黒いデスクの下にある超小型の冷蔵庫からビールとラムネを取り出した。

「僕たちのかわいい太朗ちゃんが知らない間にちょっと大人になってた記念日。乾杯しようぜ」

それぞれビールとラムネをプシュッと音を立てて開けてから高い位置でぶつけて乾杯をする。ぐぐぐぐ、ぷはー!
お父さんとぼくのぷはー!が重なってふたりで笑ってしまった。

そのとき、仕事部屋のドアがガチャリと開いて

「ちょっと男子たち、早く寝なさい。夏休みはきょうでおしまい。明日からまた学校始まるんだからね」

鬼が乳液の瓶片手に仁王立ちしていた。
ぼくとお父さんは顔を見合わせて、肩をすくめてから目尻を下げて口角をにゅっとあげた。お父さんの笑い方がいつの間にかうつってしまった。

これは8月31日、男同士の秘密を分かち合った日の夜のおはなし。


(おしまい)




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