【発狂頭巾】冬・狂人・人情噺、火口箱売りの少女

発狂頭巾シーズン3 18話より。発狂頭巾が刀を抜かない、珍しい回です。

江戸の冬は例年にない寒さが漂っていた。ことに夕暮れ時の寒さはなんとも耐えがたいものがあった。

その寒さに耐えて、発狂長屋のある狂人街の大路も大工や商人達がせわしなく行きかっている。そんな世間と最も縁遠い男、発狂頭巾こと吉貝何某の部屋にも厳しい寒さが迫っていた。一人部屋で飯の準備と囲炉裏の火おこしをしているハチは白い息を吐きながら、せっせと夕餉の準備をしていた。冷や飯、囲炉裏で温めたわかめの味噌汁、豆腐、そしてに売り屋で買った芋の煮物だ。一般的な江戸の食事風景である。

「旦那、遅いですねえ。何処に行ったのやら」

ハチは窓の外を眺めた。吉貝はいつものように「お江戸の街に巨悪がうごめいておるわ」といって、頭巾を被り、出かけてしまった。

「全く旦那にも困ったもんだ……おや、雪が……どおりで寒いわけだ。旦那、風邪ひかねえといいんですが……」

江戸の町にしんしんと雪が降り積もっていった。

日も暮れ、江戸の町は闇に包まれつつあった。人通りも絶えつつあるというのに、頭巾を被った男が大通りを胡乱な足つきで歩いている。

「ううむ、冷える。これはもしや、悪の毛唐合衆国による気象兵器の攻撃では?」

勿論、我らが発狂頭巾である。雪の降り積もりつつある道を、気まぐれに、宛てもなく歩き続けている。

「こうはしておれぬ。毛唐合衆国を束ねる大悪人、白亜の魔宮に潜み日夜世界征服をたくらむ暗黒大統領めのそっ首を撥ねに参らねばならぬ」

巨悪(発狂頭巾視点による)を許さぬ発狂頭巾の矜持が思わず口からこぼれてしまう。それほど発狂頭巾の(根拠のない)正義の心は燃え盛っているのであった。その熱さは雪すら溶かすほどであった。

如何に治安の悪い狂人街といえど、このような独り言をいう不審者がいれば、官吏に通報されるが常であるが、日も暮れ、雪の降りしきるこの時は流石に人々も家から出てこない。吉貝の独白すら雪に吸い込まれていくが如しである。この静寂を発狂頭巾は毛唐合衆国の仕業だと思い込み、また正義の心に火をつけるのである。発狂永久機関である(無間地獄ともいう)。

しゃり……しゃり……

発狂頭巾のわらじが通りに積もった雪を踏みしめる。胡乱な瞳は人気のない闇を眺めていた。

いや、人がいた。

このような雪の中に、少女が立っている。手には着火具である火口箱を大量に詰めた籠を持って、「火口箱は要りませんか?火口箱は要りませんか?」とか細い声で、通りの人々に声をかけている。どうやら火口箱を売っているようだ。

時代劇特有の雑学ナレーション「火口箱とは火打石・火打金など火花式発火法の着火具が入った小箱の事である。江戸時代の着火道具であるが、切り火のような縁起物としての側面もあった。現代でもマッチを記念品として贈るのは子の名残である」

発狂頭巾は定まらない焦点で少女を見る。服装はこの冬にはあまりに寒いと言えるほどの貧相なものであった。

大江戸発狂八町の人々は少女には見向きもしない。

何か思うところを感じた発狂頭巾はのしりのしりと、大股で歩き、少女の前までやってきた。

「娘、このような所で何をしておる」

(時代劇特有の悲しそうな挿入歌)

「はい、お侍様。火口箱を売っております」

少女の口から声と共に、白い息が漏れる。

「なにぃ?さては貴様、江戸八百八町を火の海にするために無法愚連隊(てろりすと)に火薬を売りつけておるのではあるまいな!?」

発狂頭巾の短絡(ショート)寸前の思考回路に火が付いた。だが、少女は毅然と、答え返した。

「いいえ、とんでもない事です。恥ずかしながら生活費のために火口箱を売っております。おっ父(とお)から売れるまで帰ってくるなと言われました」

「なにゆえ、そこもとの親父殿は自分で働かぬ?」

発狂頭巾(無職)の鋭い指摘にも、少女は決してたじろがない。幼さゆえの無垢さか、それとも生まれ持った資質か。

「はい。以前のおっ父は腕のいい大工でした。ですが、この秋に流行り病でおっ母が亡くなりまして、それ以降、すっかり酒浸りになって」

「むう」

「だから、おっ父が調子が良くなるまで、私がせめてお金を稼ごうと思ったのでございます。あ、お侍様、良ければ一つお買い上げいただけませんか?」

「なんと健気な。よかろう、一つ貰おう」

懐に手を入れた発狂頭巾は、たまたまハチが持たせてくれた一朱銀(数千円ほど)を見つけると、少女の手にそっと渡した。

「ありがとうございます、今日初めてのお客さんです」

少女は大事そうに、火口箱を渡す。発狂頭巾はまるで子供のように、手にした火口箱を弄びながら眺めた。

「うむ……しかし雪の中の火口箱売り、辛くはないか?」

発狂頭巾の胡乱な質問にも、少女は白い息とともに快活に答える。

「寒くて辛いです!でも、頑張ります」

発狂頭巾の黒い瞳がキラリと輝く。

「そうか。では拙者がひとつ良い事を教えてやろう」

「よいこと?」

きょとんとした顔の少女の前で、発狂頭巾は火口箱の火打石を切った。僅かに電光が光る。そして自信満々に発狂頭巾は語り始めた。

「娘よ、見るがよい。火の中に見えるであろう」

「え?」

火打石の光は一瞬で消えたが、発狂頭巾の瞳はらんらんと輝き、その精神は素面であるのにガンギマリであった。

「見よ。見えるであろう!竜宮城の如き大きな屋敷、山海の珍味を集めた馳走、暖かい囲炉裏とふかふかのふとん……何と見事な事か。炎だ。炎の中を見るのだ。娘よ。炎の中には全てがある」

なんということか。発狂頭巾は僅かな光の中に幸せな幻覚を見ていたのだ。いや、発狂頭巾にとってそれは幻覚などではなく、現実に他ならない。幻覚と現実の違いなど些細なものなのだ。

当然少女には何も見えていなかったが、否定するのもお侍さんに悪いと思ったのか、素直に礼を述べた。

「よくわからないけど、お侍様のお陰で元気がでました。ありがとうございます」

「うむ。精を出すがよい。よいか、炎だ。辛くなったら炎を見るのだ」

そういうと、すっくと立ちあがった発狂頭巾は、そのまま胡乱な足取りで、再び少女の前から去っていく。少女はそれを見届けると、また火口箱売りの口上を上げ始めた。

だが、それから一刻たっても、それ以外に火口箱など売れはしなかった。

夜も更けた頃。

狂人街の大路を歩く若い男が一人いた。すらりとした長身に良い仕立ての縮緬を羽織り、足袋をした雪駄をチャラチャラと鳴らし、提灯を持って良い気分で歩いていた。

江戸では知らぬ人の居らぬ、粋でいなせな色男、とある豪商の若旦那である。今日も夜に店を抜け出し、なじみの遊女の所へ遊びに行った帰りであった。上等な下り酒が回り、実に良い気分である。

「火口箱、火口箱は要りませんか?」

若旦那がふと見れば、そこには粗末な服を着た少女が何やら物売りをしているではないか。

「おや、お嬢ちゃん。何をしているのかね?」

戯れに、若旦那は少女に声をかけた。

「はい、旦那様。家計を助けるために火口箱を売っております。よろしければ見ていただけませんか?よい物ですので」

酒が回った若旦那は少しからかってやろうと思い、火口箱を受け取り、そして鑑定するように眺め始めた。

「ほう、では拝見しよう……ほう、箱は随分と無粋な箱だね。これでは売れないよ。ふむ、中の火口も随分と古い粗悪品なようだ。あたしほどの者になると品は見ればわかる。香りもよくない。これでは火が付くかどうかもわからないね。火打石と火打金……ああ、こりゃあ質が悪い……」

なんたることか、遊女に相手にされず酒だけ飲んで帰ってきた若旦那は腹いせに少女の売り物にケチをつけだしたのだ。なんたる意地悪、なんたる曲がった性根、いかに貧民と言えどここまでされる謂れはない!

「悪いね。お嬢ちゃん、これじゃあ買えないよ。もっと品質の……」

若旦那が哀しそうな顔をした少女の方を向いた時であった。

「ひ、ひぃ!!!」

少女の背後に何者かが立っている!

背後に刀をさした侍、頭には頭巾、顔はガンギマリの憤怒顔、そして瞳孔は黒く、宇宙の果てのような漆黒の色を湛えていた。勿論発狂頭巾、その人である。

「ひい、狂人!狂人だァァァ!!!!お助けェェェェ!!!」

驚いた若旦那は提灯を落としそうになりながら回れ右して逃げ出した。この若旦那、偉そうだが心臓はネズミのように小さいのだ。

「え?」

少女は後ろを振り向くも、誰もいなかった。あっという間に、発狂頭巾は姿を隠してしまっていた。

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発狂町は発狂長屋の近く、走りに走った若旦那は物陰で息を切らしていた。この若旦那は見てくれは立派だが、体力は全く無いのだ。

「はあはあ……」

漸く息も整い、ふうと深いため息をつく。

「何なのですか、あの狂人は……」

『なにぃ!?』

おお、なんという事か。若旦那の耳に聞き覚えのある声が届いた。青い顔をして前を見れば、発狂頭巾の顔が若旦那の顔から1尺の位置にあるではないか。

「狂うておるのは、貴様の方ではないか!?」

カァ~~~~~~~~~!(ビブラスラップ)

「ひいいいいいい!!!!!お助け、お助け!!!!」

すっかり腰を抜かした若旦那の頭を発狂頭巾の腕が恐ろしい膂力でむんずと掴みキリキリと締め付ける。

「貴様!このまま首をねじ切られたくなくば、どうすればよいかわかるな?!」

「エッ!?」

若旦那は戸惑うた。いくらなんでも無茶振り過ぎる。だが、発狂頭巾の狂った思考回路は決して許さない。その脳裏の進行図面(アルゴリズム)は「←執行猶予 処刑→」の分かれ道から全く動いていない。

「わかるな?わからねばこのまま首をねじ切ることになるが、良いな?!」

「いや、そう言われましてもね…あたた、やめてくださいよ!あたしが誰だかわかってるんですか?!」

「なせばなる!!!」

「ひっ!!!ひいぃぃぃぃ!!!!わかります!わかります!!!」

若旦那は今まで女郎を口説くとき以外に使ったことのない頭を絞り出し、答えた。必死であった。その甲斐あってか、発狂頭巾は頭を大人しく放してやることにした。

「ならば、言葉は要らぬ。今すぐにせい。わしはすぐ近くから見ておる。もし貴様が違えたら……」

発狂頭巾の漆黒の瞳が七色に輝く。

「ひぃぃぃ!!!!」

若旦那は一瞬で理解した。理解してしまった。理解せざるを得なかった。そして瞬時に、取るものもとりあえず、背後に向かって駆け出した。行く先は先ほどの少女の所だ。

「あれ、旦那さん。まだ何かあったんですか!?」

はあはあと息を切らして走ってきて、動悸すらしている若旦那に向けて、少女は心配そうな顔を向けた。だが、若旦那はただ『狂気への恐怖』に突き動かされ、少女に売り物を乞い始めた。

「お嬢ちゃん、気が変わった!!!その火口箱を全部おくれ!!!これで足りるかい!?」

差し出された三枚の小判は火口箱を籠ごと売ってもお釣りが出るほどだ。

「え、そんな大金を?!」

「いいから!お釣りいらないから!」

「は、はい!ありがとうございます、旦那様!」

その様子を物陰から覗いていた発狂頭巾はニヤリと嗤った。


雪が通りを覆い隠した深夜になった。

狂人の棲む発狂長屋から通り一つ挟んだ場所に健常長屋はある。そこに少女は、足早に帰ってきた。草鞋を脱ぎ、上がる。居間では父親が酒瓶を抱えてうつらうつらと舟を漕いでいた。

「おっ父、今帰ったよ。火口箱全部売れたよ!お代も三両と……一朱も!」

少女の声で、父親は僅かに目を覚ました。大工仕事もせず、湯屋にもいかず、髷もほつれている。それでも少女は自分のやってきた仕事の報酬である小判を父親の前に差し出した。褒めてもらえるかと思ったのだ。

だが、そうでは無かった。

「うるせえ、酒が切れてる!さっさと買ってこい!」

虚ろな動きの腕で、少女の手を振り払った。床に小判が零れた。

「でも、おっ父。酒屋はもうしまってるよ…」

「うるせえ!叩き起こしてこい!」

少女は悲しそうな眼をしながら、凍える手で小判を黙って拾い、また草鞋を履いて、表に駆け出して行った。父親の言う通り、酒屋に向かったのだ。

ああ、畜生。またやってしまった。

妻が死んでから、自分は魂が抜けてしまったようだ。大工仕事にも出ていない。娘が仕方なく小間物を売って商売させている。

ああ、なんと情けないのだ。俺は。

男は小さくため息をつき、ふと窓の外を見た。

そこには謎の頭巾を被った男がおり、奇怪な表情でこちらを睨みつけていた。

「ひ、ひいいい!!!!」

狂人に対する身も凍るほどの恐怖のあまり男は慌てて駆け出し、外に出た。あれは尋常の精神を持つ者の顔ではない。狂人にはこの世の理など通じぬのだ。

「お助けぇ!!!!」

男の悲鳴に応えるような者は夜中には存在しなかった。走って、走って、ようやく近くの井戸端までやってくる。

「はあ、はあ、畜生。なんだってんだあの狂った野郎は……」

「なにぃ?!」

その瞬間、男の胸倉が、凄まじいまでの膂力でぐっと掴みあげられる。おお、見よ。その七色に輝く瞳を爛々と輝かせた頭巾姿の侍が、男を睨んでいるではないか!?

「ひい、ひいい!!!お助けぇ!!!狂人!!!狂人!!!狂人だァ!!!なんまんだぶなんまんだぶなんまんだぶ!!!」

男は絶望した。そして理解した。神も仏も、狂人には敵わないのだ。吊り上げられた男はしめやかに失禁したが、発狂頭巾は決して許さない。夜の帳の中であるのに、発狂頭巾の瞳に灯った原初の炎が男の顔を煌々と照らしている!睨みながら、冷徹に、狂った声色でこう告げた。

狂 う て お る の は

貴 様 か 、 俺 か ! ?

(カァ~~~~~~~~~~!!!!)

「ウワァァァァァァァァァァァァ・・・・・・・・・・・・」

男の意識が遠く遠く、闇に吸い込まれていく。遙か地の底に落ちる感覚。いや、逆に天高く、月も太陽も超えて、空高く跳んでいく感覚。それが何度も繰り返される!男はやがて意識を失っていった。

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「おとっつぁん。おとっつぁん」

どれほど時間が経ったのだろうか。気が付けば、自分は井戸の近くで倒れていた。酒を買いに行った娘が自分を揺り起こしている。

「こ、ここは……お前、どうした?狂人は?!」

「きょうじん?そんな人いないよ。良かった、死んだかと思った。さ、こんなところで寝たら風邪ひいちまうよ。帰ろう、おとっつぁん」

男は娘に支えられて、ゆったりと立ち上がった。あれは夢か幻だったのだろうか。しかしあの狂人の顔を見て以来、女房を失ってからの陰鬱とした気分がすっかり晴れていたことに気が付いた。不思議と、晴れ晴れとした気分だった。

「ああ、帰ろう……それにな、それどころじゃねえ……明日は仕事に出ねえとな……なあに、親方には土下座してでも置いてもらうさ……」

男がゆっくりと、娘と共に家路につく様を、鐘楼の上から見つめていた覆面の影があったことを、その覆面の顔がゆっくりと狂った笑顔をニタァと見せたことを、男は知らなかった。


大江戸の冷えた朝である。発狂長屋の扉ががたりと開く。

「おお見よ、ハチよ。雪が少し積もっておる。雪だるまでも作ろうではないか。知っておるかハチ。雪だるまの頭には『えめす』と書くのじゃぞ!」

発狂頭巾だ。早速子供のように雪で遊ぼうとする。

「旦那、朝餉。朝餉食べてからにしてくださいよ」

ハチに呼び止められた発狂頭巾だが、その目は雪もハチも見ていなかった。その視線の先には大路を走る大工道具箱を担ぐ一人の男だった。

「おうおうおう、随分休んじまって申し訳ねえ。今日からバリバリ取り戻すからよ!!!」

おお、あの男ではないか。すっかり魂が戻ったかのように、仕事場に向かっている。どうやら親方は仕事への復帰を許可したようだ。

「ふむ、これにて一件落着だな!ハチよ」

「はいはい、旦那。何のことかわかりやせんが、鼻水、出てますぜ」

発狂長屋から澄んだ冬の江戸の空を眺めながら、発狂頭巾の特に意味のない高笑いが鳴り響くのであった……