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【シアトル的迷選手で行こう】第3回 ショーン・フィギンス

野球の世界最高峰の舞台であるMLB。球界、そして時代を代表するような大スターたちが華々しく活躍し、名選手と呼ばれる裏では、世界最高峰の舞台まで辿り着くだけの才能は持ち合わせているものの、イマイチ残念な部分が抜けきれず、迷選手と呼ばれる存在もいる。そんな選手たち、特にシアトル・マリナーズ に在籍したことのある迷選手たちにスポットライトを当てていく。第3回はショーン・フィギンス。

(第2回はこちら)

プロフィール
デズモンド・デショーン・フィギンス(Desmond DeChone Figgins)
1978年1月22日生、ジョージア州レアリー出身。ポジションは内外野。
1997年ドラフト4巡目指名でコロラド・ロッキーズ入団
MLBでのプレーは2002-2014年の13年間

ソーシア野球の申し子

1997年にロッキーズに入団し、2001年にトレードでアナハイム・エンゼルス(現ロサンゼルス・エンゼルス)に移籍したフィギンス。自慢の足を生かし、徐々に出場機会を増やしていくと、2005年にデービッド・エクスタインの移籍に伴い、エンゼルスのリードオフマンに定着する。送りバント、盗塁といったスモールベースボールを好むマイク・ソーシア監督にとって、フィギンスのようなリードオフマンはまさにソーシア野球を体現した存在であった。おまけに投手、捕手、一塁手以外の全てのポジションを守れる万能性も非常に評価されていた。

2009年には打率.298、出塁率.395、42盗塁、主に守ったサードではDRS29、UZR16.8と攻守両面で自己最高のシーズンを送る。初めてのオールスターにも選出され、MLBを代表するリードオフマンに成長した。

同年オフにFAとなり、1番イチローと共に打線の起爆剤的な存在となれる選手を欲していたシアトル・マリナーズと4年3600万ドルの大型契約を結ぶ。

何もかもが上手くいっていたフィギンスの野球人生。しかし、マリナーズへの移籍を機に歯車が狂い始める。

悪夢の始まり

2010年のスプリングトレーニング、マリナーズは前年まで主にセカンドを守っていたホセ・ロペス(現横浜DeNAベイスターズ)をサードにコンバートさせ、FAで加入したフィギンスをセカンドで起用する方針を打ち立てる。前年サードで圧倒的な守備を見せていたフィギンスをあえてセカンドで起用する必要があるのかと一部ファンからは疑問の声も上がったが、エンゼルス時代のフィギンスの万能性、足を考えれば特にセカンドでも問題なくプレーできるだろうと誰もが考えた。

ところが、蓋を開けてみればフィギンスはセカンド守備に大苦戦。エラーの連発で度々投手の足を引っ張り、それどころか守備範囲もおおよそ前年40盗塁以上を記録している選手とは思えないほどに狭く、とてもMLBレベルではなかった。結局1年間セカンドでプレーを続けたが、19エラー(守備率.973)、DRS-7、UZR-11.1と前年サードで残した数値とは比べ物にもならないほど酷い数値が並んだ。

守備の低迷は打撃にも悪影響を及ぼしてしまう。開幕から主に2番を任されていたが、シュアな打撃は鳴りを潜め、前半戦をわずか打率.209で折り返し、打線の起爆剤どころか打線のブレーキとなってしまう。

プレーの面では悪夢のようなスタートを切ってしまったが、悪循環はさらに続く。7月23日のボストン・レッドソックス戦、5回に相手のマイク・キャメロンがレフトにツーベースを放った際、レフトからの返球が中継の頭を越え、逸れてしまう。通常レフトへの打球にはショートが中継に入るため、ボールが逸れた際のカバーはセカンドが行うが、フィギンスはカバーに入らず、それどころか逸れたボールを取りに行く素振りすら見せず、ボールはフィールド内を転々とし、キャメロンの進塁を許してしまう。

カバーを怠ったことを無気力プレーと捉えたドン・ワカマツ監督はフィギンスを懲罰交代。この判断にフィギンスは怒り、ベンチでワカマツ監督と口論となり、さらにチームメートとも喧嘩を起こしてしまう。(動画

プレーで精彩を欠いた上に、ベンチではトラブルを起こすなどシアトルでの1年目は散々だったフィギンス。終盤に固め打ちし、打率を.259まで押し上げたが、それでもMLB定着以降では最低の水準に終わり、4年契約の1年目から期待を裏切る結果となってしまう。

そして皮肉なことに、この1年目が数値面ではフィギンスのシアトルでの最高のシーズンとなる。

醒めない悪夢

2011年シーズンはロペスの移籍に伴い、再びサードに戻ったフィギンス。これでかつての姿を取り戻せるのではないかと多くのファンが期待したが、一度狂った歯車はそう簡単に元には戻らなかった。

慣れ親しんだサードに戻ったことで、守備面ではDRS-1、UZR3.3とまずまずの成績を残すが、肝心の打撃面がキャリア最低のシーズンだった2010年以上に落ち込んでしまう。81試合の出場で打率.188、出塁率.241はMLBのレギュラーを与えられる水準になく、結局シーズン途中にアダム・ケネディにその座を譲ることとなってしまった。

2012年シーズン、監督がエリック・ウェッジに代わり、心機一転リードオフマンで開幕を迎えるが、もはやフィギンスにMLBで輝く力は残されていなかった。開幕直後こそ2試合連続3安打を記録するなどファンを期待させる活躍を見せたが、すぐにスランプに陥り、5月には打率.189まで落ち込むと、ウェッジ監督はフィギンスを控えに降格させると表明。以降はほとんど出場機会を与えられず、シーズンを終える。

悪夢のような3年間を終え、精神的にも疲弊したフィギンスは、まだ契約を1年(オプションが自動行使されれば2年)残しながらもこの頃にはマリナーズから脱出したいと考えるようになる。

悪夢のような3年間はフィギンスだけでなく、マリナーズフロントも同じであった。期待して大型契約で連れてきた選手が、手を尽くしても3年間全く機能せず、貴重なロースターを枠を潰していた。耐えかねたマリナーズフロントは11月20日、契約を1年残してフィギンスをロースターから外す決断を下した。

こうしてフィギンスの3年間にも及ぶ悪夢は半ば強制的に幕を閉じた。

(参考:フィギンスのシアトルでの3年間。数値はBaseball Referenceから引用)

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おわりに

マリナーズから解雇されたフィギンスは、2014年にロサンゼルス・ドジャースでMLBの舞台に返り咲くが、結果を残せず、シーズン途中に再び解雇される。そして、2016年にエンゼルスと1日契約を結んだ後に現役を退いた。

何をやっても上手くいかなかったマリナーズ時代がフィギンスの野球人生を大きく変えてしまった。FA契約史上最悪の契約の1つにしばしば挙げられるが、古巣エンゼルスのソーシア監督も言う通り、どうしてここまで酷いことになってしまったのかは誰にもわからない。

野球の神様は時に気まぐれで、時に残酷だ。

Photo by Keith Allison

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