プリンス・ジョン 〜障害を持って生まれたイギリス王子〜
/// 3,000字以上ある長い記事です ///
毎年4月2日は、国連が定めた自閉症啓発デー。
さらに2〜8日までは発達障害啓発週間です。
これに先立ち、かつての英国王の末っ子で てんかん及び自閉症の症状があったとされるジョン王子をご紹介します。
誕生〜4歳ごろまで
1905年7月12日生まれ。
父は次期イギリス国王で、6人きょうだいの末っ子。
家族からは「ジョニー」と呼ばれていました。
小さい頃はとにかくヤンチャ。
しかし4歳ごろからてんかんの症状が現れ始めます。
また徐々に自閉症のような症状や学習障害も見られ始めます。
隔離生活へ
その後も症状は悪化する一方。
兄達のように学校に通うこともなく、それどころか10歳頃 それまで家族との住まいだったヨークコテージを離れ、乳母と共にウッドファームという別の場所に住むことになります。
これは、当時てんかんの症状に対処する手立てがなく、てんかんの症状が出ている人は「周囲の人が精神的ダメージを被るから 社会的に隔離されるべき」と考えられていたためです。
早すぎる死
11歳の誕生日以降は公の場に姿を見せることもなくなり、家庭教師も解雇されました。
↓10〜11歳頃撮影されたきょうだい写真↓
(ジョニーは前列左)
そして1919 年1月18日、重度の発作を起こしたのち眠りながら亡くなりました。13歳でした。
葬儀は、住んでいたウッドファームから程近い教会で、身内のみで行われました。
ジョニーの死を伝えたのは週明け1月20日月曜日の新聞でしたが、そこで初めて王子がてんかんを患っていた事が明らかにされたそうです。
◇◇◇
「悲劇の王子」だったのか
障害のため家族とは別居で、公の場にも出してもらえなかった人生。
生まれながらの王子にしては 随分と寂しく悲しい生活に見えます。
しかし残された記録をよく見ると、ジョニーも家族の一員として大切にされていた事、また家族以外の人からも愛されていた事が分かります。
1.ルーズベルト元大統領にお目通り
ジョニーの父であるジョージ5世と、元アメリカ大統領ルーズベルトが昼食をとっていた時の事。
食事の終わりに、ジョージ5世の子ども達が入室する事になっていました。
それに先立ち、ジョージ5世は息子ジョニーことジョンのことを 大統領にこう話したのです─。
「子供達は皆よく言うことを聞くんです─ジョン以外は。(中略)見てて下さい、ジョンは部屋に入ってきたら真っ直ぐケーキに向かうでしょうから─」
そして入室するや本当にケーキに向かって一目散のジョニー。
父は大統領に向き直り
「ほら言ったでしょう」
と予言が当たったことを誇らしげにしていたとか。
◇
実は父ジョージ5世、海軍育ちで非常に躾に厳しかった人。
しかしジョニーはそんな父をも恐れぬKYぶりで、末っ子だったことも幸いしたのか他のきょうだいと比べてだいぶ甘やかされていたようです。
更に父ジョージ5世は当時 全国てんかん患者雇用協会(National Society for the Employment of Epileptics)の会長を務めていたそう。
てんかんの症状があったジョニーにも一定の理解があったのではと推測されます。
2.ジョニーから使用人への手紙
さて、そのヤンチャぶりで周囲の手を焼かせたと考えられるジョニーですが、外向的で人懐っこい面もありました。
そんなジョニーが、落馬で腕を骨折した厩舎管理人に宛てた手紙をご紹介します。
"Dear Mr Stratto (①)
I hope yor (②) arm
is better are you
going to chaarch(③)
With my love
From John"
◇
これが書かれた年代は不明なのですが、何しろ11歳で教育を打ち切られたジョニー。
この手紙は相当がんばって書いたと考えられます。
間違いが敢えて訂正されていないのも、そう言った背景があるからではないでしょうか。
◇
また、この手紙を保管していたのは宛先のStratton氏の姪のそのまた娘。
子供がいなかったStratton氏が死ぬまで手紙を大切にし、その子孫まで大切に受け継がれているのは、ジョニーが家族以外からも愛されていた証だと思います。
※
実際の手紙は、こちらの動画の30:13頃見られます
3.ジョニーを生涯忘れなかった乳母
忙しい両親に代わってジョニーの面倒をいちばん見ていたのは、間違いなく乳母のシャーロット・"ララ"・ビルでしょう。
「ちょっとヤンチャ」程度だった頃から亡くなるまで、ジョニーの障害はきっと治ると信じ、どんな時でもそばに寄り添い続けました。
◇
当時は医学の未発達により発達障害もてんかんもあまりよく知られておらず、対処法が確立されていませんでした。
そんな中、年の割に体が大きかったジョニーを世話するのは並大抵の苦労ではなかったと想像されます。
ジョニーが亡くなった際、バッキンガム宮殿にいた母のメアリー王妃に知らせたのも彼女でした。
◇
ララは、ジョニーが亡くなった後 出産はおろか結婚もすることはありませんでした。
ジョニーの写真が入ったロケットペンダントを身に着け、マントルピースの上には大きく引き伸ばしたジョニーの写真を飾っていたそうです。
ジョニーの写真入りロケットを身につけたララ↓
そしてもうひとつ、乳母であった彼女がずっと大切に持ち続けていたもの─それはジョニーが彼女に宛てたメモでした。
そこにはたった一言、こう書かれていたそうです。
”Nanny, I love you. Johnny"
おわりに
ジョニーはその障害のため 国民の目から遠ざけられ、家族にも見捨てられた不幸な王子と見なされてきました。
しかし本当は、家族や自宅周辺の村人達に愛され、王室のしきたりに縛られず幸せに暮らしていたのではないでしょうか。
◇
第一次世界大戦もあり、イギリス王室には逆風が吹いていた時代。
そんな中、ジョニーは周囲からの愛情を受け、自らも周りに光を与えるような子どもだったのではないか─と、写真や近しい人とのエピソードから想像しています。
長い記事をご覧くださり、ありがとうございました。
参考
・トップ画像と年表に使った画像:
Prince John of England
LIBRARY OF CONGRESS
Control Number 2014687461
No known restrictions on publication
・Wikipedia
《 Prince John of the United Kingdom 》
《 レオポルド (オールバニ公) 》
・PubMed CentralⓇ
《 The Lost Prince 》
Iain McClure, consultant child and adolescent psychiatrist
2003 年 1 月 25 日
・Royal Central
《 The boy they call the Lost Prince – did the Windsors really hide Prince John? 》
・YouTube
TheRoyalAffairs
《 Prince John: The Windsors Tragic Secret 》
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