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ロマノフ家のラム・ババ

「ラム・ババ」あるいは「ババ・オ・ロム」と呼ばれる洋菓子をご存知でしょうか。
甘い発酵パンに、ラム酒風味を効かせたシロップを浸み込ませて作る大人向けのお菓子で、日本では「サバラン」と呼ばれることが多いです。
(サバランの名前の由来は後ほど)

photo AC より

《補足1》こちらの記事では、参考資料に合わせて「ラム・ババ」表記で主に進めていきます

《補足2》似たようなお菓子でナポリ銘菓の「ババ」もありますが、今回はフランスで広まったお菓子の話です

ラム・ババは19世紀にパリのパティシエが作ったものが人気を博し、世界中に広まったと言われています。

さて、そんなラム・ババがロシア皇帝の一族であるロマノフ家の記録に登場したのは、1913年。
フランスの首相がロシアを訪問した際、時のロシア皇帝ニコライ2世との昼餐会でデザートのひとつとして供されたそうです。

ラム・ババはフランス発祥ですから、フランス首相へのおもてなし料理としてはぴったりですよね。

馬車に乗るポアンカレ首相(左)とニコライ2世(右)
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メニューの中ではラム・ババのことを「タンバル・ド・フリュイ・ パリジェンヌ⚫︎ ⚫︎ ⚫︎ ⚫︎ ⚫︎ ⚫︎」と呼んでおり、ここからもフランスを意識したメニューであることが分かります。

タンバルとは、太鼓が語源の丸い型のこと。
恐らくこのような円形のものが出されたのでしょう
photo AC より


しかしその歴史を紐解いていくと、ラム・ババ誕生にはロシアも1枚噛んでいたと言えなくもないんです。
一体どういうことなのか?見ていきましょう。

ラム・ババ誕生まで

まずラム・ババ誕生に大きく貢献した人物が、スタニスワフ・レシチニスキ

スタニスワフ・レシチニスキ
Jean-Baptiste van Loo画
Public domain / Wikimedia Commons


この方は元々ポーランド国王だったのですが、ロシアに反抗的な態度を取っていたため ロシアから国王即位を認められず、露軍の侵攻を受けてフランスに亡命していました。
(フランスには、彼の娘がルイ15世の妃として嫁いでいました)

1737年、ルイ15世よりフランス領の一部を賜ったスタニスワフ。
この時、ババBaba或いはバブカBabkaと呼ばれる、ポーランドでイースターに食べられる円筒形のケーキを伝えたという説があります。

バブカを持つ少女の絵。
Public domain / Wikimedia Commons



なお、ポーランドのケーキではなく「クグロフ」というケーキにラム酒をかけたものがラム・ババの起源である説もあります。

ラム酒をかけたクグロフの美しさから、異国情緒あふれる『千夜一夜物語』のアリババをイメージし、「ラム・ババ」と呼ばれるようになったというものです。

『アリババと40人の盗賊』のワンシーン
GetArchive / Public domain



他にもちょこちょこ異なる話があり、どの説が正しいのかはハッキリしません。
…がしかし、スタニスワフが亡くなった翌年の1767年、フランスの哲学者が「ババ」について言及した手紙があるのだそう。
この手紙が、フランスで "ババ" という言葉が初登場した文書と言われています。

という事で、ロシアに国を追われたスタニスワフが何らかの形でフランスにババをもたらした可能性は高いと言えるのではないでしょうか。

パリ、そして世界へ

ここまで見てきたように、18世紀半ばごろフランスに伝わったと考えられるババ。
19世紀に入ると、複数のシェフがババのレシピを残します。

中でも注目すべきはストレージュリアン兄弟。いずれもパリで活躍していたパティシエです。

ストレーは、スタニスワフのお付きシェフの子孫。
スタニスワフは、焼き上がりから時間をおいて乾燥気味の生地にラム酒をかけたものを「ババ」としたそうですが、ストレーは焼きたての生地にラム酒をかけるレシピを生み出しました。

余談ですが、現在でも彼の店がパリに残っています。建物は歴史的建造物に指定されているそうです。


ショーケースの中。真ん中のお菓子、札にババ・オ・ロムとありますね↓



このストレー流ババが生まれたのは1835年の話。
そして1844年頃、ジュリアン兄弟が更に新しいレシピを開発します。

まず従来と異なるのがその形。
それまでは円筒形の型で作っていたものを、平たい円形の型で作りました。
そしてラム酒ではなくキルシュやアブサンなど風味の強いお酒を使ったシロップに浸すやり方を編み出します。

イメージ
Public domain / Wikimedia Commons



兄弟はこのレシピで作られたババを、友人の美食家ジャン・アンテルム・ブリア=サヴァランにちなみサヴァランと命名。

のちにシロップがラム酒風味に変わって世界に広まり、その後日本では「サバラン」の名前で定着しました。

ロマノフ家の昼餐会


ラム・ババの歴史を辿る旅が長くなりましたが、ここで1913年のロシアに戻りましょう。

ロシア皇帝ニコライ2世とフランス大統領との昼餐会にラム・ババが出されたと言う話でした。

世界中の宮廷のメニューを集めたサイト・Royal Menusによると、ロマノフ流ラム・ババはタンバル(円形の焼き型)型のラム酒漬けブリオッシュで、ベリーをトッピングしアプリコットシロップをかけて作られたものだったそうです。

イメージ
CCBY-4.0 Wikimedia Commons


なおWikipediaを見ると、イチゴやブルーベリーを飾ったババは「ババ・オ・フリュイ」、てっぺんにあんずジャムを塗るのが「ババ・オ・ロム」とあります。
ロマノフ流は、両者のいいとこ取りをした印象がありますね。

さて美味しそうなスイーツを頂いたロシア皇帝とフランス首相、この後お召し列車に乗ってロシア軍の軍事演習視察に向かいます。

勘の良い方はお気づきかと思いますが、昼餐会が行われた1913年は第一次世界大戦勃発の年。
実はこの昼餐会、サラエボ事件から1ヶ月も経たない時期の話なんです。

諸国で団結してオーストリア=ハンガリーをなんとかしなければ、世界中を巻き込んだ戦争になってしまう。
元々19世紀の終わりから露仏同盟により結びついていた両国が、この時改めて接近したのですね。

桟橋で歓迎を受けるフランス首相(中央左)と
ニコライ2世(中央右)
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しかし時すでに遅し。昼餐会の翌日、1800km離れたオーストリア=ハンガリーでは、セルビアに向けて最後通告。諸々の要求を出しますが、結局交渉が上手くいかず国交断絶します。
そして通告より5日後の7月28日に第一次世界大戦が始まるのでした。

パブリックドメイン / Wikimedia Commons



日露戦争に続く世界大戦で、困窮をきわめたロシア国民の 皇帝に対する怒りは限界に。

1917年には二月革命が起こり、ロシア皇帝一家は処刑、ロマノフ朝は崩壊したのです─。

1917年 ロシア国内のデモ
パブリックドメイン / Wikimedia Commons



ロシア国民の皇帝に対する声は、ラム・ババのように甘くはなかったようですね。

photo AC より


おわりに

ちょっとラストが暗くなってしまいましたので宣伝を。
当記事をお読み頂き、ラム・ババに興味を持たれた方におすすめのマガジンをご紹介します。

その名も「サバランさん同好会」
"サバラン"は、先に書いた通り、ラム・ババの変形あるいは別名ですね。

ラム・ババことサバラン、日本ではブームが過ぎ「知る人ぞ知る」みたいな存在ですが、ある所にはあるんです。
そんな貴重なサバラン情報を、才能に溢れたクリエイターの皆様が素敵にご紹介下さるマガジンです。



なお私もサバランさん同好会会員No.5を拝命し、こちらの記事でマガジンに参加させて頂いております。


お読み下さり、ありがとうございました!

参考

見出し画像
・ニコライ2世肖像画→Wikimedia Commons
・ラムババ→Photo AC

・Wikipedia
オーストリア最後諜報
ロレーヌ公国
バブカ
ポアンカレ

・Royal Menus
LUNCHEON AT THE PETERHOF
TSAR NICHOLAS II
RAYMOND POINCARÉ - PRESIDENT OF FRANCE

・leguidedesconnaisseurs.be
1835. La véritable histoire du baba au rhum


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