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カラフルといぶし銀【恋人が死のうとした⑤】


もしかして、体調が悪いかもしれない。
その日、起きてすぐそう思った。


彼が自殺を試みた翌日、わたしは職場に普段通り出勤した。
いつもよりiPhoneの通知は気にしていたが、普段通りの仕事をこなせたと思う。
そしてさらに翌日、夜勤明けで彼を病院に連れて行った。
手首の傷を縫合した経過観察のためだった。
彼は風邪をひいていた。
あの日、お風呂場でびしょ濡れのまま、倒れていたのだから当然とも言える。
フラフラな彼を支えて、どうにかこうにか受診させた。
そして、わたしたちは手首の抜糸をすぐに行うとなぜか思い込んでいたが、そんなはずはなく、また次の受診日程を提示されそうになった。
地元に帰らせる旨を慌てて医師に伝え、地元の病院で抜糸が行えるように紹介状を書いてもらった。

そしてさらにその翌日。
2022年11月15日(火)
たまたまわたしの連休が重なり、その日は彼を福岡に帰らせる日にした。
彼の体調が悪くなくてもわたしは彼に付き添って福岡に行ったと思う。
数日前に手首を切った彼が駅のホームで咄嗟に飛び込む衝動が起きない保証など、どこにもないからだ。

午後の新幹線で夕方には彼の地元に到着できる予定だった。
彼の荷物はキャリーケースひとつ。
今後のことは何も決まっていないのだから当然だ。

新幹線ではいっしょに駅弁を買って食べた。
少しでも楽しい気持ちになってほしかった。
これから死にたくならないように。
生きていたいと思えるように。

やっぱりわたしも風邪がうつったのかもしれないな。

最寄り駅で買った風邪薬を飲んだ。
体調を崩したのは4年ぶりだった。
もともと丈夫な体質なわたしは、ここのところ熱を出したのもコロナウイルスのワクチン接種の副反応くらいだった。

ダブルワーク、彼氏の自殺未遂、夜勤明けの警察対応、満足に眠れないままの彼の母親への対応、そして風邪をひいた彼の看病。

さすがのわたしもこれだけ重なれば風邪くらいひくんだなと他人事のように感心した。

喉が痛くてせっかく買った駅弁の味もよく分からなかった。
横目で彼を見ると駅弁の写真を撮って母親に送っていた。


新幹線を降りると彼の母親が車で迎えに来ていた。
彼の家族は母ひとり息子ふたりの三人家族だ。彼より後に実家を出た弟くんが彼の部屋を物置にしていたため、その掃除のために彼の母親は前日も休みをとって業者を呼び掃除をしたとのことだった。

「明日も休みを取っているから○○ちゃんを送っていけるからね」

だったら、あの日も連休をとって名古屋にいて付き添ってあげてほしかったし、福岡に自分で連れて帰ってほしかった。

ちらっと脳をかすめた思いを振り払って、わたしは彼女に笑いかけた。
彼にとって2年ぶりの実家だ。

別に観光に来ているわけではなかったからそれでいいのだが、福岡で行ったのは彼の実家、そしてその近所のスーパーくらいだ。

晩御飯は彼の母親の作った鶏肉のクリーム煮を食べた。
風邪のひき始めの喉には少々つらい。飲み込むときに険しい顔をしないように意識を表情に全集中した。
「酔いちくれようよ」
彼がそう言って買った缶チューハイをあけた。
わたしも買っていたが、喉がやけるように痛く、ひと缶すら飲みきれなかった。

彼の母親は久しぶりに息子が実家にいることがよほど嬉しく、とりとめのない話をしゃべり続けた。

「なんていうか、おかしい子なんよ」

弟くんの彼女の話にもなり、束縛が激しく位置情報管理アプリを入れられているらしいという話や自信がない人ほどそんなことをするという話や、その彼女と比べてわたしは落ち着いていていい彼女だ、とかそんな話をされた。
正直、居心地はあまり良くない。

「あの子の彼女のお母さんもね、なんかそういう人なんよ。
なんていうの、くらーい感じの人。
ほら、わたしがカラフルな感じの人やけん、余計そう思うっちゃ」

カラフルな人。

確かに彼の母親はそうかもしれない。
弟くんの彼女の母親がどんな人なのかは知らないが、仮に彼の母親がわたしの母親を見たらなんというのだろうか。

前にもこんな気持ちになったことがあった。
彼の家族と出かけたときの話だ。
例えば車の中から道行く人に対して。またはお店のスタッフに対して。
服装だとか体型だとかに口をはさんでいた。
「あの人、でぶやねえ」
「うわ、あの服、ださ!」
その時もわたしはどうすべきか分からず、居心地が悪く、あいまいに微笑んでいた。
スタッフが太っていたからといって、通行人が変わった服装をしていたからといって、わたしたちにどんな影響があるというのか。

彼のことは好きだった。
彼はとても優しく、共感することが得意な人だ。
一般的に男性は共感することが苦手な人が多いと聞く。
彼が初めての彼女であるわたしに対しても、よく話を聞けて、否定せず、共感の言葉を述べてくれるのは育った環境によるものだと思っていた。
父親と離婚した母親の話を長男としてたくさん聞いて寄り添って、思いやってきたからこその賜物だと思っていた。
たとえ彼の母親がわたしが苦手とするタイプの人間だとしても、そんな彼の性格を築き上げてきた環境と存在ごと愛するつもりでわたしは彼と付き合ってきた。


寒いな。
この家に入ってから上着を脱いでいない。


「電気代かかるけん、エアコンはつけんといて」
数時間前、今日から再び暮らす息子にそう言い放っていたのを聞いた。
実家にお邪魔している彼女の立場でエアコンつけてくださいなんて言えるはずがない。

「今日はもう休ませてもらっていいですか」

話が途切れたタイミングでそれだけ伝えて、泊まる予定の彼の部屋に向かった。彼はまだお酒を飲みたかったようで、缶チューハイを差し出してきたが、わたしは首を横に振った。

「ごめん、寝ていい?」
「いいけどさすがに上着脱いだら?」
「寒いからこのままで寝たい」

そこまで会話してようやく彼はわたしの身体が熱いことに気が付いたようだった。慌ててエアコンをつける。
夢うつつの中、彼と彼の母親の声が聞こえた。

「かわいそうに、あの子あんなに色々してくれたのにあんたに風邪うつされて」

かわいそう。

わたしはかわいそうなんだろうか。

まあ確かにかわいそうかもしれない。
連休に福岡まで来てよく知りもしない人の悪口を聞かされて。
そんな人にかわいそうって言われて。

あ、どうしよう今けっこうつらいかも。

ふと自分の母親に会いたくなった。
わたしの母親は決してカラフルな人ではない。

わたしの母親はなんだろう。

モノクロ?

いや、

いぶし銀だな。

自分の頭の中の回答に満足して、わたしは与えられた毛布にくるまった。


半日以上、滾々と眠っていた気がする。
それでも体調は治っていなかった。
彼の母親から渡された解熱剤を飲むと幾分ラクになったように思う。
新幹線の時間に合わせて彼の実家をあとにした。

頻りに「命の恩人に風邪をひかすなんて」と繰り返す彼の母親にお礼を言って駅で車を降りた。
彼は新幹線のホームまで見送りに来た。

「会いに行くね」
それだけ彼が言った。
次いつ会えるのか、お互い予想もできなかった。
同棲する前、遠距離時代にそうしていたようにハグをするわけでもなかった。

わたしたちは新幹線がホームに滑り込むまで、ただただ隣にいた。

「元気でね」

それだけ言って新幹線に乗った。
動き出した新幹線の中途半端に四角い窓からは、手を振り続ける彼がだんだん小さくなっていった。

久しぶりの遠距離恋愛の始まりに寂しくなるかもしれないと思ったが、肩の荷が下りた安心感のほうが大きかった。
渦中にいた時は気付かなかった。
でも、いま気が付いてしまった。
彼は私にとって重荷だったのだ。

解熱剤でおさまっていた熱が上がっていくのを感じた。

安心すると人間は体調を崩す。

彼と離れて、
わたしはいちばん好きなはずの人と離れて、ようやく安心したのだ。

新幹線は進み続け、遥かかなた後方になってしまった彼を思う。

もう二度と会わないかもしれないのか。

それまでは思い浮かばなかった選択肢が思い浮かぶ。

とりあえず、今は体調を治すことが先だな。


こんな時でも新幹線に差し込む夕日は美しくて、
それを美しいと思える自分になんだかホッとした。