深海から浮いてきた日
最近は、体調がいいから油断をしていた。
3月いっぱいで仕事もやめ、この先についてなにも決まっていない宙ぶらりんの状態でも、目標を決めてコツコツ動けていた。寝つきの悪い夜があっても、悪夢はみないし、次の日もしっかりと働けていた。「ちょっと太ってきたから、運動しないと」と思うほど、しっかりと食事も取れていた。
だから、びっくりしたんだと思う。動けなくなってしまったときに。
その日は、少し心に引っかかることがあった。ここに記すに足らない、ほんとうに些細なこと。でも、時間が経つにつれて、その出来事に傷ついている自分がいることに気づく。「ああ、こんな些細なことで私は傷つくのか」といたたまれなくなる。
買い物に行ったり、文章を書いたりすることで、気を紛らわそうとした。でも、その傷口が風穴になったのか、いろんな記憶が私を苛むでいった。
やりたいことを伝えたときの両親の表情、恋人からの拒絶の言葉、「ごめんなさい」と何度も思った上司からのフィードバック。寂しかった、しんどかった、つらかった、そのときの「小さな私」が、「今の私」を乗っ取っていく。
そうすると、もう私の体は私のものではないほど重い。暗い暗い海の底にいるような感覚になる。残りわずかな空気を吸えるよう、呼吸を安定させること精一杯になるしかない。
仕事の断りを入れ、ベッドに横になる。しとしとと降る雨は、大きな凶器となって、さらに私を海の底へ押していく。「足掻いてはいけない、きっと浮いてくるから」と信じて、目をぎゅっと瞑る。
浅い眠りから覚め、水を飲み、また浅い眠りにつく。それを何回か繰り返したとき、雨が止んでいた。長い長い旅から帰ってきたように体は怠かったが、寝続けて1日半しか経ってなかった。
「今日は大丈夫かもしれない」。空っぽの胃にトーストを押し込み、シャワーを浴びる。少し仕事をしてみて「やっぱり大丈夫だったじゃないか」と自分に言い聞かせる。
自転車に乗って、大好きなカフェにきてみる。そこにはまるで母のように、話を聞いてくれる店主さんがいる。ナポリタンを食べながら、心が温かくなって、ちょっとだけ泣いてしまった。
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