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#MeTooと#Sympathy 宗教と人格権とセクハラと他者受容と「できること」

 TOKIOの山口さんが強制わいせつで書類送検されたニュースが飛び込んできた。そのニュースが刺激となって瞬間的に思い浮かんだキーワードが,このnoteのタイトルになっている。

 この文章は決して明るくはない。
 明るくはないけれども,書かなきゃいけないような気がしている。
 さらに言えば,多くの人に読まれなければならないような気がしている。
 少し長いけど,最後まで大切だと思うことを散りばめているので読んでもらえたらとても嬉しい。
 そして,いいなと思ったら反応と拡散をいただければ,とてもありがたいなと思っている。

 なお,山口さんのニュースはこの記事を書くきっかけであって,この記事そのものは山口さんの事件に直接の焦点をあてるものではないということを,あらかじめことわっておく。

◇◇◇

「宗教」

 あれはわたしがまだ学生の頃の話だ。未成年の頃だ。
 比較的仲良しの友人がいた。
 
 その友人は,ある宗教の熱心な信者であった。
 一方で,わたしには特に信仰する宗教はなかった。なかった,と過去形で書いてみたが,今も特にない。そして,わたしが特定の宗教を信仰しないことについては,「絶対的なもの」をあえて信じないことで広くものごとを考えられる人でありたい,という一応の理由があった(誤解のないように書いておくと,宗教を信仰することと広い視座で物事を眺めることは矛盾しない。あくまで,わたしにとっての理由だ。)。
 
 物事を絶対的にではなく相対的に眺めていたい。
 そういう想いは,当時からわたしの人格の根本にあった。

 わたしは「相対教」という名の宗教に入信していたのだ。
 そして,何を信じるかは,友人もわたしも誰も彼も自由なのである。そして,信仰する自由が十分に尊重されるのと同様,何かを信仰しない自由も尊重に値する。

 特定の宗教の信者と「相対教」の信者。
 お互いにそういう考えであることは,わたしも友人も理解していたと,少なくともわたしは思っていた。

 あるとき,その友人の家へ遊びに行くことになった。
 家族がいて,夕食をご一緒させてもらった。
 ただの友人およびその家族との交流の機会をもつ趣旨だと理解していた。
 夕食に出てきたメニューは,たしかカレーライスだったと思うが,その部分の記憶には自信がない。アジフライだったのかもしれないし,あるいは麻婆豆腐だったのかもしれない。ご飯と味噌汁と漬物だったのかもしれないし,手巻き寿司だったのかもしれない。
 でも,とにかく何かを一緒に食べたことは間違いない。
 友人のご両親とご兄弟も一緒だった。

 食事中にいきなりビデオ上映会がはじまった。
 そんな予定は聞いていない。
 だが,テレビ画面には教祖様が映し出された。

 そうして,家族一丸となっての勧誘がはじまった。
 わたし一人とご家族との聖戦がはじまった。
 
 まずは,その教義の素晴らしさが説かれた。
 なるほど,そういう考え方があるのは認めよう。そして,それをあなた方が信仰するのは自由だ。しかし,わたしは違うんだ。
 そういう文脈で,わたしは「相対教」に入信していたいということを語った。

 だが,その後に待っていたのは人格の否定ともとれるような発言の数々だった。
 
 何も信じていない人間はつまらない。
 そういうことじゃ幸せになれない。
 一生後悔するよ。

 この素晴らしさを理解できないなんて信じられない。

 読者のなかには,その場を立ち去ればよかったではないかと思う方もいるかもしれない。だが,確かにそこにはあったのだ。立ち去れないような圧力とも空気感とも呼べる雰囲気が。

 こうした「勧誘行為」は深夜にまでおよび,終電を逃した。
 そしてわたしは,その友人の家に泊まることになった。
 わたしの部屋としてあてがわれた和室には,教祖様のグッズが綺麗に並べられていた。
 
 一刻も早く帰りたかった。
 朝になることを願った。
 夜がこんなに長いということを恨んだ。

 朝になって,友人が「何もなかったかのように」振る舞ってきた。
 わたしは,愛想笑いを返し,その場をあとにした。

 わたしの気持ちのなかでは,その後も「何もなかったかのように」はできなかった。そうして,かれこれもう20年近く経つのに,その出来事の記憶は薄れない。

 さて,あなたが同じ立場に置かれたらどうだろう。嫌な気分にならないだろうか。だとすれば,それはなぜだろうか。

◇◇◇

「人格権」と「セクハラ」

 世の中にはいろんな権利がある。権利とは法的に保護される利益のことだ。
 そして,あらゆる権利のなかで,もっとも大切なものは「人格権」だ。

 それは,人の存在や人格と不可分な利益に関する利益の総称と言われる。
 「この利益ってわたしの人格,わたしという人と切り離せないほど大切なものなんだよ」といえるもの。その中身が法的に保護されるべきと考えられるようになったとき,そこに「人格権」があるといえる。

 わたしの人格と切り離せないほど大切なものって人によって違うだろう。

 宗教については「宗教的人格権」という呼び名があり,性については「性的人格権」という呼び名がついている。
 それを並列に扱えるものではない。次元が異なるものだ。
 でも,どちらも「わたしという人格」と切っても切り離せないほど大切なものなのだ。

 だが,その切っても切り離せないものは,しばしば不条理に侵害される。
 
 冒頭「宗教」で書いた例では,わたしの宗教的人格権が侵害されたという見方が可能だ。何を信じるか,世界をどのように見たいかという考え方はわたしの人格と不可分に結びついている。それをないがしろにされたことが,とても悲しかったのである。

 近年とくにクローズアップされているセクシャルハラスメント(セクハラ)。
 これに関連する人格権は「性的人格権」だ。
 その内容は,人間の性的尊厳に由来する性的自由(強制,脅迫,恐怖からの自由)や性的自己決定(自立,自律)を含むものである。
 もちろん,これらの内容は,人の人格と切っても切り離せないものだろう。
 「性」をとりまくものを自らの人格に照らして自由に,自主的にコントロールする。それは「人が人であること」と密接に結びついている。
 セクハラは「人が人であること」を否定する行為である。

 より法的に表現すれば,性的人格権を侵害する,すなわち,女性(*)の人格と切っても切り離せないものを侵害する違法行為である。
*男性に対するセクハラもあるが,多くの場合は女性が対象になっている。

 わたしの人格と切っても切り離せないもの。
 それは一人一人違うかもしれない。だが,「人格と切っても切り離せないもの」に対して他人から自らの意思に反して介入を受けたら悲しい気持ちになるという点は,きっと多くの人に共通していることだろう。
 その悲しみが理解できるなら,他人の「人格と切っても切り離せないもの」を侵害する行為は厳に慎むべきである。

◇◇◇

「他者受容」

「他者受容」という言葉は,わたしが社会問題を考えるうえで一つのキーワードになっている。
 セクハラもパワハラもいじめも,「個」が侵害される社会問題の多くは,問題を引き起こす側に「他者受容」の力が足りない。もちろん,わたしも人のことをいうほど他者受容力が十分かと言われれば自信がない。一生かけて鍛える必要のある能力だと思っている。

 今,流行りの「○○力」は「多動力」だろう。
 でも,きっと「他者受容力」の時代がこれからやってくる。
 なぜなら,AIがこれから台頭してくる時代にあって,「他者受容」は人間だからこそなし得るものだから。

 「他者受容」というキーワードは,佐藤優さんのこの著作で知った。

 
 今手元に本がないので,ごく大雑把に言うと,「他者受容」とは「自分が自分のことを大切に思っているように,相手も相手のことを大切に思っていることを理解する感覚」のことである。

 自分のことは誰だって大切だ。「自分なんて」って思っている人でも,本音ベースや無意識ベースでは自分のことが大切なはずだ。
 そして,自分のことが大切であるように,相手も「自分のことは大切だ」と思っている。自分の人格権が大切なら,相手だって自分の人格権を大切だと思っている。
 そういう当たり前の感覚をもって人と接していくこと。
 それが「他者受容」である。

 冒頭の「宗教」の事例では,わたしは相手から「受容」されていなかった。「相対教」の信者としていきたいというわたしの気持ちは無視されていた。

 セクハラをする人は,相手に「自分のことは大切だ」「一人の人間として尊重されたい」「自分の性的意思決定は自由に自分らしくしたい」という思いがあることを忘れてしまっている。そのような他者受容の感覚をずっと忘れているのかはわからない。でも,セクハラをしている瞬間は完全に忘れているはずだ。

 いじめもそうだ。
 パワハラもそうだ。
 かなり多くの社会問題がそうだ。

 「他者受容」の感覚が広まれば世の中の問題は減るはずだ。だが,その感覚を広めるための手段を,今のところわたしは持ち合わせていない。
 もしかしたら永遠の課題なのかもしれない。
 だからといって,「他者受容」の感覚が広まることへの希望を捨ててしまっては社会は終わりだ。そう思うから,わたしはこの文章を書いている。

◇◇◇

 「できること」

 誰かが声をあげたとき,誰かの人格権が侵害されているときに,まず「できること」は何だろう。「他者受容」の感覚が広まるように表現することも一つだ。でも,もっとシンプルにできることがある気がする。

 セクハラ問題について考えてみよう。


 「#MeToo」

 として誰かが声をあげたとき,声に対する反応は多様だ。
 だが,わりとこういう反応が目立つような気がする。

 本当か。真実はどうだったのか。
 告発の意図はどこにあったのか。
 ハニートラップではないか。
 社会はどうすべきか。
 加害者死ねよ。

 しかし,誰かが声をあげたときに,これらの反応は一番に必要なものなのだろうか。いろいろ考えてみて,そうではないと思うに至った。
 誰かが声をあげたとき,特にその声が大変な内容を発するものであったときに,まず必要は反応はなんだろう。
 それは,受容と共感ではないか。

 現実にあなたの目の前で人が泣いていたとする。
 目の前で苦しそうな人がいたとする。
 そのときに,最初に「この人の行動の意図は何か」とか「何があったのか,真相を究明しよう」とか「この人の言っていることは本当か」とか考えたりするだろうか。
 違うだろう。
 「大変だったね」
 「どうしましたか」
 「話聞きますよ」

 まず必要なのは,そういう言葉がけではないか。その人を受け入れ,いったんは共感を示すことではないか。

 それが対面コミュニケーションの基本だったはずだ。
 顔が見えないネットでは,つい「受容」と「共感」をすっとばして別の反応をすることがある。いや,誤解をおそれずにいえば,むしろ別の反応はかなり多い。
 だが,対面でも非対面でも「受容」と「共感」が大切であることに変わりはないオンラインであっても,
 「大変でしたね」
 「すごく辛いお気持ちでしたね」
 「勇気出しましたね」
という言葉をかけると,その一言が#MeTooと発した当事者にとって光となる場合がたくさんあるようにわたしには感じられるのだ(もちろん,当事者の気持ちは当事者に聞かないとわからない。あくまでわたしの推察だ。)。

 いきなり大きな視点で考えない。
 ネットでも声をあげる人がいたら,遠い世界ではなくて,目の前にいる人が泣いているものと思って,まずはその人の声を受け入れる。共感する。それが,発せられた声に対して一人一人が「できること」の第一歩なんだと思う。

#MeTooは 「わたしも」と声をあげる人のハッシュタグ。
 これはこれで広まったらいいなと思う。
 他方で,その声を受容し共感を示すハッシュタグがあれば,「わたしも」と言えない人でも「大変だったね」「気持ちわかるよ」という想いを伝えやすくなるのではないか。そこでふと考えた。


  #MeToo に併記する形で#Sympathy
 共感を示すシンプルな単語。「大変だったね」「辛かったね」と共感していることを端的に示す言葉。
 「 #MeToo #Sympathy
 あげられた声に対して,シンプルな受容と共感があふれる社会。


 「どういう意図だ」とか「ハニートラップだ」とか「真実は何か」とか「加害者は死ね」「直ちに辞職しろ」「政権は責任を取れ」「証拠を出せ」とかいう言葉があふれる社会より,声があげられた場合に,「大変だったね」「わかるよ」というシンプルな受容と共感の言葉があふれる社会にわたしは生きたい。

 「Sympathy」には思いやりという意味がある。それは先ほど書いた「他者受容」に通じる言葉であるはずだ。

 だから,このハッシュタグには,声をあげた人に対する受容や共感に加えて,もう一つの意味を込めている。声をあげたものに対する受容と共感を示すとともに,一般的に「他者受容」の大切さを社会に訴える,祈りにも似たハッシュタグなのだ。

 「 #MeToo #Sympathy

 みなさんは,どういう社会に生きたいだろうか。社会にどのような祈りが届けばよいと考えているだろうか。

 (了)

#コラム #エッセイ #コミュニケーション #人間関係 #MeToo #Sympathy  #コンテンツ会議



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