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【翻訳】アダム・トゥーズ「ようこそポリクライシスの世界へ」(2022年10月29日)

アダム・トゥーズ氏による「ポリクライシス(Polycrisis)」についてのエントリの要約・解説記事です。

ポリクライシスとは、政治(Policy)と様々な危機(Crisis)の複合語で、本来政治が対処すべき事象が、市場に丸投げされることで、複合的な危機が生じる現象を指します。


[以下要約]
パンデミック、干ばつ、洪水、甚大な台風と山火事被害、第三次世界大戦の脅威、私たちはこの衝撃的な危機の数々にももはや動じなくなってしまっている。だからこそ、時には私たちが置かれているこの状況の異様さについて考える必要がある。

ローレンス・サマーズ元米国財務長官が最近述べたように、「現代は、私が警戒してきたこの40年間で、記憶する限り最も複雑怪奇でさまざまな分野での課題を抱える時代」である。

当然ながら、我々の慣れ親しんだ経済メカニズムは依然として力を誇示している。債券市場の混乱は、無能な英国政府を崩壊に導いた。市場規律の教科書的な事例と言えるかもしれない。しかし、そもそもなぜ英国債市場はあれほどに動揺を見せたのだろうか。その背景には、莫大なエネルギー助成金と、コロナ対策として膨れ上がった債券ポートフォリオを解消しようとするイングランド銀行の思惑があったのだ。

経済的な衝撃と、非経済的な衝撃が端から端までずっと絡み合うこの状況で、「ポリクライシス」という聞き慣れない言葉が流行するのも無理はない。

ある問題が「危機」となるのは、それが私たちの対処能力を超えることで、私たちのアイデンティティを脅かすときである。ポリクライシスな社会状況では、その衝撃は分散的であっても、それらが相互作用し、全体での衝撃は、部分部分の総和よりもさらに凄まじいものとなり、時には現実を見失ったような感覚を覚える。あのミシシッピ川が本当に干上がりつつあり、中西部の農場が世界経済から切り離されつつあるのだろうか?1月6日の暴動は、本当にアメリカ連邦議会議事堂を襲ったものだったのだろうか?西側諸国の経済は本当に中国から切り離されようとしているのだろうか?かつては空想に過ぎなかったことは、今や現実のものとなっている。

これは確かに衝撃的であるが、はたして史上類を見ない未曾有の事態なのだろうか?2008年から2009年にかけてを振り返ると、プーチン政権下のロシアがグルジアに侵攻、ジョン・マケインがサラ・ペイリンを副大統領候補に選出、銀行は破綻し、世界貿易機関(WTO)によるドーハラウンド〔訳者注記:WTO主導のもと行なわれた多角的貿易交渉〕は、翌年のコペンハーゲンでの気候変動交渉と同様に不調に終わり、そしてなにより、豚インフルエンザの蔓延にも見舞われた。

「ポリクライシス」の普及に貢献した前欧州委員会委員長のジャン=クロード・ユンカーは、この言葉を1990年代に最初に用いたフランスの複雑性の理論家であるエドガール・モランから2016年に拝借した。モランの主張どおり、包括的なグローバル・リスクという新たな感覚が人々の意識に流入したのは、1970年代初頭に起きた生態系に関する危機感がきっかけであった。

では、私たちは常にこの「ポリクライシス」の中に生きてきたのだろうか?自分達だけが被害者ではない。

1970年代にはユーロコミュニストであれエコロジストであれ、あるいは鬱屈した保守主義者であれ、悩みの種はただ一つだった。それは「後期資本主義」、つまりは過度または過小の経済成長、あるいは過剰な権利〔保護〕である。単一の原因であれば、社会革命であれ新自由主義であれ、抜本的な解決策を想起することができる、ということでもある。

過去15年間の危機がここまで複雑怪奇になったのは、単一の原因を指摘し、その解決策を示唆することがもはや妥当とはみなされなくなったからである。1980年代には「市場」が効率的に経済を動かすことで成長をもたらし、政治的対立が解消され、冷戦に勝利することが出来ると信じられていたかもしれないが、今日において全く同じことを一体誰が唱えるだろうか?民主主義が脆弱であることは明らかとなった。「持続可能な開発」には物議を醸す産業政策が必要であり、そして、北京とワシントンとの新たな冷戦はいまだ始まったばかりである。

一方で、経済と社会の発展が生態系の破滅に至る転換点に向かって突き進んでいることへの不安は、問題の複雑化に拍車をかけている。

人類の変化のスピードは脅威的である。1970年代初頭、世界人口は現在の半分以下であり、中国とインドは絶望的に貧しかった。今日、世界はその大部分が絶対的貧困の廃止に向けて長い道のりを歩んできた強力な国家に組織され、900億ドルの世界総生産を生み出し、年間350億トンのCO2の割合で炭素収支を枯渇させながら、合計で12,705の核兵器を保持している。私たちの将来的な問題は50年前から続く問題でもあるという想定は、歴史変革のスピードとスケールの理解を誤っている。

さて、今後世界はどうなるのか?世界を支配する緊張感の原因がただ一つであるとき、ある時点で危機はクライマックスを迎え、そこから解決に至ると想像することもできる。しかし、そうしたワーグナー的なシナリオはもはや妥当とはいえない。現代の歴史は、即興、革新、改革、危機管理体制により紡がれた進歩の物語のようである。私たちは幾度となく大恐慌を免れ、病気の流行を止めるためにワクチンを開発し、核戦争を回避してきた。そして私たちは、技術革新によって今後迫り来る環境危機を乗り越えることも出来るだろう、おそらく。

しかしこれはイタチごっこでもある。差し迫る危機との戦いや技術的な解決策は、問題の根底にあるトレンドに対処することはほとんどないからだ。私たちが危機に対処すればするほど、さらに緊張も高まっていくのだ。この数年間が苦痛と混乱に満ちたものであり、既に人生が破綻しているのであれば、受け入れる覚悟を決める時だ。この果てなき綱渡りは、ますます不安定で神経をすり減らすだけなのだから。

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