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縄文の足音が聞こえてくる|神奈川県田名向原遺跡

数多くの縄文遺跡が点在する神奈川県西部。
そこに2万年前の旧石器時代の「田名向原たなむかいはら遺跡」があります。
旧石器時代の光景を思い浮べると、石器を片手にマンモスやナンマンゾウを追いかける…そんな原始的な生活ではないでしょうか。
ところが遺跡から見えてきたのは、縄文時代の到来を予感する景色でした。


旧石器時代の終わりの頃

約7万年前から始まった最終氷期。日本列島は大陸と陸続きとなり、北からはマンモスやヘラジカ、南からはナンマンゾウやオオツノジカなどの大型動物がやってきて、人々はそれを追う生活をしていました。

やがて海面の高さが上昇し、日本全体が海に囲まれる状態に戻ると、大型動物の数は少なくり、イノシシやシカなどの小動物が増えてきました。
人々は洞窟や簡易的なテントのようなものを利用して、狩りをしながら転々と移動しながら暮らしていたと考えられています。

そんな時代に誕生した田名向原たなむかいはら遺跡は、河川敷から急斜面を登ったところ位置しています。
当時はもっと緩やか地形で、川の水や魚を捕るなど自然の恵みを利用した暮らしがあったと推測されています。

旧石器時代~古墳時代の痕跡が残る

住居状遺構じゅうきょじょういこうから見つかったもの

この遺跡には「住居状遺構じゅうきょじょういこう」、つまり住居跡と考えられる「柱の穴」や「炉の跡」がみられます。

日本各地でこのような住居状遺構じゅうきょじょういこうが確認されていますが、田名向原たなむかいはら遺跡は、「3000点以上の石器」が出土した、他にはない特徴を持つ遺跡です。

住居状遺構は10mの円形
柱の穴や炉穴が点在

そして、その「3000点もの石器」のうち、実に2000点以上は「黒曜石」でした。

石器は、狩りや生活で使うナイフなどの材料として使われたもので、獲物を射止めたり、それを捌いたりすることに発揮されました。

その最適な材料とされていたのが「黒曜石」なのです。

さらにこれらの「黒曜石」の70%以上が、長野県の和田峠産であることがわかりました。(和田峠は黒曜石の一大産地として知られています。)
そこは直線距離でも120㎞以上、途中には富士山もあり山々が連なっています。

縄文時代には全国的なニーズがあり、「黒曜石の道」があったことが知られています。が、その片鱗はすでに旧石器時代には見えていたようです。

ナイフ形に加工された黒曜石
その輝きにも魅了される

微細な成分から分かったこと

この遺跡は現在の地表よりも約1.5m下にありました。
そこからは「河原の砂が混じった火山灰」や「富士山から流れてきた火山泥流」が確認されました。

このことから、当時はここが川のすご近くにあり、後に富士山の噴火の影響を受けたことがわかりました。

更に、埋もれた「柱穴」からは、炭化した木材片が見つかりました。

「柱穴」は柱が立っていたと思われるものですが、柱である「木材」は腐ってしまい、通常「穴」だけが残されています。

その木材片を科学的に分析した結果、約21,000~20,700年前のものであることが分かったのです。

このことから、ここが「日本最古の住居」である可能性が考えられるようになりました。

火山灰や泥流に埋もれながらも、ほんの僅かに残されたもの。それらがこの遺跡の年代を教えてくれたのです。

人が住む家?

多くが黒曜石で占められていた3000点もの石器。
その石器はナイフなどに製品化されていたり、全く加工されていないものがありました。

また住居状の10mの円形の中央には、2つの炉穴がありました。これは火を焚いていた証拠です。

多くの石器に、2つの炉穴。
これはどうやら個人の家ではなかったようです。

推測されるのは、
ここが主に黒曜石を使った「石器工場」であった、ということです。

ー 周囲から人々が集まり、石器づくりをする。
材料である黒曜石を保管し、寒さを凌いだり、煮炊きをするために火をおこす。 ー

人が住居として使用したかは定かではありませんが、ここでは常に大型動物を追いかける生活は想像できないようです。

時間の流れは、今よりもずっとゆっくりであったと思われるこの頃、
きたる縄文時代を感じさせる一片が見えていたようです。

参考図書
田名向原たなむかいはら遺跡リーフレット

最後までお読みくださり有難うございました。

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