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今日のできごと①

ザンビアでは揚げパンやスコーンをバケツにたんまり入れて子どもや女性が売り歩く姿をよく目にする。
時々クリニックでも揚げパンやスコーンを売っている。今日は同僚のひとりがスコーンをバケツにいてれクリニックのスタッフに売っていた。
同僚からスコーン買ってと頼まれたので、お昼ご飯にちょうどいいなと思って一つ買うことにした。そこにボスがやってきてた。バケツからスコーンを一つ取り出して、当然のごとくパクリと口に運んだ。「ミナ、俺の分払っといて」当然のように放たれた一言。スコーンは1つ2クワチャ。「どうして私が買うの?」そう言ってみたものの、「払っとけよ。」そう言ってスコーンを食べながら立ち去っていった。でもお財布には大きい金額のお札しかなくて、小銭は2クワチャだけしか持っていなかった。ザンビアでは2クワチャのものを買うのに、100クワチャのお札を出すのはタブーだ。仕方なく2クワチャを支払い、自分の分を買うのは諦めた。

そのあとなんとも言えない悔しさで胸が押しつぶされそうになった。2クワチャが惜しいわけでも、自分がスコーンを食べられなったかのが残念なわけでもない。うまく言葉にできないけれどどういうわけかひたすらに悔しい。


どうしていつもいつも物をねだられるなきゃいけないんだろう。
どうしてはっきりイヤだって断れないんだろう。

ボスはイヤなやつだけれど私の面倒は比較的よくみてくれる。
色々トラブルはあったけれど家探しも付き合ってくれたし、ミーティングで発言の場を与えてくれたり、ビザの更新のためにイミグレーションに連れていってくれたり、私が申し出たことには賛同して協力してくれる。でもとにかくいやなやつだ。どこかに行くといえば、土産物を要求するし、一人で食事から帰ればなにか俺に買ってきたかと必ず聞いてくる。パソコンで作業をしていれば、そのパソコンをよこせと言ってくるし、絶対返す気はないのにお金を貸せと言ってくる。でも配属先のボスであることに違いはないし、頼る相手がいない私にとっていなくてはならない存在だ。
彼にとって、私が部下であるメリットは対外的に日本と関係があることを示すことができること。彼は私を連れて歩けば、日本からのボランティアを受け入れている施設の施設長として顔が立つ。その一方で私は英語も現地語もろくに話せない小娘。彼にとって都合のいい存在だ。

事実私はザンビアのためになにもできていないし。クリニックのためにボランティアとしの貢献はなにひとつできていない。ただのJICAのマスコットとしての役割しか果たせていない。そしてボスしか頼る相手がいないことも重々承知している。そう思うと言いなりになってしまう。
たかが2クワチャ、されど2クワチャ。
うまく言葉にできない悔しさで泣きたい気分だった。

気を紛らわすかのように仕事をしていると、ある看護師が私を呼ぶ声が聞こえた。部屋に入ると、はい、とスコーンを渡された。その部屋には、ボスとのやり取りを見ていた同僚もいた。なにもその件には触れず、あなたのために買ったのよ、食べなさい、と言ってスコーンを差し出してくれたのだった。私は彼女にお金を払おうとしたけれど、あなたのために買ったんだからいらない!と拒否されたので、お礼を言ってスコーンを受け取った。恐らくボスにスコーンを買わされた私の姿を不憫に思った同僚が、そのエピソードを彼女に話したのだろう。それを聞いた彼女は自分の分と一緒に私の分も買ってくれた。そしてなにも知らないふりをして、私に分けてくれたのだ。涙を必死にこらえながらスコーンを食べた。食べ終わって、ありがとうともう一度告げると、気にしなくていいのよ~!、と肩を抱いてくれたのだった。

よくしてくれるザンビア人はたくさんいる。何度もザンビア人のやさしさに触れてきたし、助けてもらってきた。でもその反面、物をねだられたり、貸したものがかえってこなかったりイヤな思いもたくさんしてきた。でも唯一この看護師だけは、いつもやさしさだけをくれるのだった。任地に赴任して2か月、接していて一度もイヤな気持ちになったことがないのはこの看護師たった一人。今日の一連の出来事を思い出したら泣けてきた。なんでこんなに泣いているだろう。彼女のやさしさに対してだろうか、本当に信頼できる相手がたった一人しかいない孤独だろうか、こんなによくしてくれるのに彼女のためになにもできない不甲斐なさだろうか、ボスに言いなりになる自分への悔しさだろうか。あの一場面を思いだすと、とにかく涙が止まらない。

ザンビアで暮らしていると、毎日なにかしらいやな気持ちになること腹立たしいと思う出来事が起こる。

どうしてものをねだられるといやな気持ちになるのだろうか。
どうしてチャイナ!チャイナ!と言われて腹が立ちのだろうか。
どうしてボスのために小銭をはたくことが悔しいのだろうか。

ザンビアでは黄色人種の日本人も“ムズング”と呼ばれる。
ムズングは白人を指す言葉だ。
ザンビアで暮らすムズングの多くが、援助団体の職員だ。ドナー慣れしたこの国の人々はムズング=お金やモノをもってくるひと、と認識されているように感じる場面が多くある。

2年の間に日本に帰ることはないのか?という質問は、日本に帰る機会があるなら日本製品を買ってこいという意味だし、日本からものを送ってくれるひとがいるのか?という質問は、日本にいるだれかから俺のために日本製品を送ってもらってくれという意味だった。首都や他の隊員の任地に行くと伝えれば、土産物をせびられる。ユニホームを着て出勤すれば、そのユニホームはいくらするんだ?という質問に続き、日本から送ってもらえと要求される。低栄養の原因や背景が知りたくて、お母さんにアンケートを取っていれば研究費としてお金を払えといわれる。一緒に買い物に行って、私が買ったものに対してくれたおまけは当然のように横取りされる。これはすべて同僚や大家さんとのかかわりの中で体験したできごとだ。

もちろん親切にしてもらうこともたくさんある。ジュースやお菓子をわけてくれたり、仕事がなくてさまよっている私に仕事を教えてくれたり、わからないことを聞けばどんなに忙しくてもイヤな顔せずに教えてくれるし、なかなか上達しない私に根気よく現地語を教えてくれる。突然やってきた外国人の私にこんなによくしてくれるなんて、と日々感激している。

でも正直ものをねだられるたび、この親切もやさしさもすべてお金のためなの?と思ってしまう。

この町に暮らして2か月が経っても、家から一歩外に出れば毎日チャイナ!チャイナ!と言われる。大声で呼びかけられることもあれば、私が通り過ぎたあとで小声で話しているのを聞くこともある。いまだにチャイナ!ヒーハオ!チョンチョンチャン!チョンチョンリー!と言われることには慣れない。なぜか毎回腹が立つ。実際私はアジア人だし、ザンビアで一番影響力が大きい国は中国だからアジア人をみて彼らが中国人だと認識するのは当然のことだ。でも中国と日本は違う、中国人と日本人は違う、そもそも私はチャイナではない、と言い返したい気持ちになる。中国はザンビアをはじめアフリカ各国を経済的発展のフィールドとして開拓してきた。ザンビアに特化していえば、負債まみれで返済は100%不可能に近い状態にある国に対して円借款を続け、国内最大の電力会社を担保にするなど21世紀の植民地化ともいわれるやり方で力を強めている中国。もちろんボランティアなんて派遣していないし、こんな片田舎に一人で暮らす中国人なんていない。潜在的に日本人ボランティアとして、草の根で活動しているという謎のプライドがあるのだろう。そうはいっても現地の人々の生活水準と比較してかなり余裕のある暮らしをしているし、現地語はなかなか上達しないし、活動らしい活動もできていない。それなのにプライドだけはいっちょ前だから、中国人の認識されることに腹立たしさを感じる。

ボスの言いなりにならざる状況なのに、懐になんの影響もない程度の小銭なのに、なにも配属先の力になれていないのに、それなのに小銭をせびられて悔しいと思う。もっとボランティアとして配属先のために活動できていたら堂々とイヤだといえるのに、尊敬されるような人材なら小銭をねだられることなんてないはずなのに、もっと堂々とふるまえていたら見下されることもないのに、そんな風に思うとすごくすごく悔しい。

でもチャイナ!チョンチョンリー!と叫ぶザンビア人のことも、ムズングを金づるとして認識する同僚やボスのことも、変えられるのは自分しかいない。直接かかわれる相手には、自分は中国人ではなくて日本人であることを伝えるようにしている。ビジネスや金銭的物質的援助のためにここに来たわけではなくボランティアとしてこの町に暮らしていることを伝えるようにしている。看護師だとは言っているけれど、事務作業も掃除も後片付けでもたとえそれが現地のボランティアさんにできる仕事であっても、雑用であっても配属先でできることはなんでもするようにしている。他の同僚が遅い時間に出勤しても時間通りに出勤して、自分のできる仕事がなくなっても同僚の仕事が終わるまで手伝えることを手伝って職場に残るようにしている。毎日出勤したら一番先にボスを探して、現地語であいさつするようにしている。

彼らの認識や言動を変えられるのは、私しかいない。だからできないなりに、未熟なりに、がむしゃらにもがいている。もがけばもがくほど、自分の不甲斐なさ未熟さやるせなさを突き付けられる。そんなときに触れるやさしさは、いとも簡単に私を泣かせてくる。

家に帰ると、私がかえって来たことに気づいた大家さんの孫たちが私の家に遊びに来た。家にあったミカンを一緒に食べた。看護師が私にスコーンをわけてくれたように、私もなにかをだれかと分け合いたいと思ったからだ。

うまくいかないことばかり。いやな思いをすることばかり。悔しい想いをすることばかり。でも自分の力の及ぶ範囲でどうにかこうにか暮らしていくしかない、活動していくしかない。与えてもらったやさしさを大切に大切に心にとめて、私も優しいひとになりたい。私が彼女に対して、彼女がここにいてくれてよかったと思うように、だれかにあなたがいてくれてよかったと思ってもらえるような存在になりたい。

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