世の中は、ニヒリズムにみちている

僕は、世の中はニヒリズムにみちていると、ずっと思っていて、今も、そう思ってます。
で、同じように考えている人が、ドストエフスキーや椎名麟三などの文学者にいて、その作品を読むことで、救われていたのです。
例えば、椎名の「私の聖書物語」の一節。


≪それは、こういうふうにしてはじまった。ある日、頭の禿げかかった四十男は、机に向っていた。その男は、小説を書いている男なのだが、いまや彼の生きて行く道はすっかり閉ざされているようだったのである。この人生に絶望の揚句、ただ一つの残された救いとしてすがりついて見た聖書から見事に跳ね出されてしまっていたからだ。むろん笑いものになる覚悟で、彼はその2,3ヶ月前のクリスマスの日、上原教会の赤岩栄牧師から洗礼を受けたのだが、牧師の手から、何のことはない頭に二、三滴の水が落ちただけにすぎなかったのである。何ごとも起らなかった。全くおかしなほど彼には何ごとも起らなかったのだ。だが洗礼を受けた後で、教会のひとびとが口々にその彼におめでとうを言った。彼はますます変な気持になって来た。何かが妙な工合だった。で、彼は、その集会が終ると、急いで便所へ行って長々と小便をした。どうにもバカらしくてやりきれなかったからである。その便所の窓からは、アツケラカンとした寒そうな青い空が見え、片方の紐のとれた衛生マスクの形をした白い雲がうかんでいた。そして彼は、洗礼など全く何ごとでもなかったことを改めて確認したのであった。
だが、彼は、情ないことにはどうしても生きたかったし、ほんとうに生々と生きたかったのである。
だからその日、彼が机に向っていたときも、生きたいあまりに仕方なく自分にとって無力な聖書を読んでいたのである。しかしいままで繰り返し読んでいたので、それはいらだたしいほど退屈きわまる読書だった。そして退屈のあまり少しばかり意地わるくさえなっていた。彼は、よりによって聖書の一番バカらしい個所、つまり復活の個所を拾い読みしはじめた。一番最初にあるマタイ伝の復活のくだりを読んだ。この聖書記者のやつ、困ってやがるなと思った。復活のくだりになると、そこを読まれでもしたら困るようにひどく急ぎ足で書いてあったからである。次にマルコ伝のそのくだりを読んだ。まるでその個所だけ余計なもののように括弧でかこんであり、その第一行は、「週のはじめの日の朝早く、イエスはよみがえって、まずマグダラのマリヤに御自身をあらわされた」と書いてあったのである。このマグダラのマリヤは、売春婦だったらしい女なのだが、心霊術の霊媒というのも大抵は女だし、田舎のミコというのもむろん女だし、女というのはどうも神や霊などと内通する不思議な能力をもった存在にちがいないと思った。それだけなら読んだ努力が惜しいので、彼は、元売春婦と関係づけるところなどいかにもキリスト教らしいではないかと、ことさらに感心して見せたのである。しかしせっかく感心して見せたのに、やはり彼にとってどういうこともないのであった。
彼は、いつものようにいささかいらいらして来た。勢よく三番目の福書であるルカ伝の復活のくだりをあけた。そしてこうなったら仕様がないから、ナワトビの遊びでもする子供のように、そのまま素直にこの個所を読んでやろうと思ったのである。
「ふたりの弟子が、エルサレムから7マイルばかり離れたエマオという村へ行くとき、そのふたりへ死んだイエスがあらわれたんだな。」
と、彼は神妙そうに読んでは考えた。「よろしい。そのふたりの弟子はエルサレムに帰って11弟子とその仲間に話したんだな。11弟子だって?ああ、そうか、12弟子のうちユダはイエスを裏切って首をくくつて死んじゃったのか。なかなか計算が行きとどいている。そこへイエスがまたあらわれたんだな。きつと真裸じゃおかしいから、やっぱりあのユダヤのダラリとした白衣を着ていたにちがいない。ふむ、自分は霊じゃない、嘘と思うなら、自分の手や足を見てくれ、さわって見てくれ、霊に肉や骨はないが、わた主にはあるのだって?……よろしい、イエス君、そんなにいうのなら見てあげよう。」
そうして、彼は、弟子やその仲間へ向ってさかんに毛脛出したり、懸命に両手を差しのべて見せているイエスを思い描いたのである。ひどく滑稽だった。だが、次の瞬間、そのイエスを思いうかべていた頭の禿げかかった男は、どういうわけか何かドキンとした。それと同時に強いショックを受け、自分の足もとがグラグラ揺れるとともに、彼の信じていたこの世のあらゆる絶対性が、餌をもらったケモノのように急にやさしく見えはじめたのである。彼は、その自分が信じられなかった。あまり思いつめていたので気ちがいになったのかも知れない気がした。彼は、あわてて立ち上って鏡へ自分の顔をうつして見た。だが、それはまるで酔っぱらったように真赤にかがやいていて、何かの宝くじにでもあたったような実に喜びにあふれた顔をしているのであった。彼は、その鏡のなかの顔を仔細に点検しながら友情をこめて言った。
「お前は、バカだよ。」
しかし不思議なことにはその鏡のなかの顔は、そういわれてもやはり嬉しそうにこコニコしていたのであった。≫


これが、椎名麟三のキリストの信仰の目覚めであった。
そして、そういう椎名の信仰を、僕は、信じられると思ったのだ。
このニヒリズムにみちた世界で、生きることが、できたのだ。


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