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【教育観:5】学歴社会をどう乗り越えるか~第8回福澤杯争奪全国学生辯論大会を振り返る~

お久しぶりです、ないとぅーんです。本当に久しぶりにnoteを書きます。

今日は2023年2月に出場した第8回福澤杯争奪全国学生辯論大会にて準優勝を頂いた時の弁論を振り返ります。

演題は「剣はペンより強し」

福沢杯の主催大学である慶応義塾大学のエンブレム、「ペン剣マーク」の由来は、「ペンは剣よりも強し」という言葉です。

今回は、このことわざに倣って、「剣はペンよりも強し」というテーマで弁論をしました。

具体的には、学歴社会は現代社会の最大の権力争いです。私たちは学齢期になったその瞬間から「学歴」というペン=権力を握るための戦いに強制参加させられています。

「特別的なニーズの支援」「個に応じた教育」「アクティブラーニング」を学習指導要領で謳いながらも現実は、「与えられた宿題をただひたすらにこなし、テストでよい点を取れる生徒」こそが社会で役に立つ人材となっています。

つまり、個性や特別ニーズは二の次であり、まずは学歴が第一条件の世界だということです。

でも、学歴社会自体を変えることが私は正解だと思いません。
なぜなら、学歴以上に相手のことを客観的に評価することのできる、こんなにも便利な変数が現代には存在しないからです。

つまり、学歴社会自体を変えることはできない。

だから、学歴社会を生き抜くための武器=剣を身に付けようではないか!
剣をもって、学歴という権力=ペンを制圧しよう!という弁論です。

詳しいことは下の原稿を読んでみてくださいね。

実はこの弁論、界隈の皆様から本当に高い評価を頂きました。
優勝にあと一歩届かなかったのは残念ですが、とても学びになった大会でした。

以下、原稿になります。

「ペンは剣よりも強し」
 慶應義塾大学のエンブレムの由来にもなっているこの言葉。「武力では言論を破れまい」、日々弁論に励む私たちにも響く言葉です。
しかし、最初にこの言葉が使われた時は、全く異なる意味でした。最初に使われたのは戯曲「リシュリュー」の中です。主人公のリシュリューはフランスの宰相で国王お墨付きの政治家でした。彼はあるとき軍の司令官が自分を暗殺しようとしていることに気づきました。そこで彼は、「軍を動かさないことを命じる令状」に、ペンで署名をし、歯向かうことができないようにしたのです。
 つまり「ペン」とは、社会的な権力によって力を持つものという意味なのです。そして私たちはそのペンを握るために、社会で評価される権力を手に入れる為の競争に強制参加させられているのです。
 現代においてその権力をめぐる最大の競争が、「学歴」競争です。
学歴とは、まさに現代社会における権力であると言えます。近年は、学歴社会に対する批判も話題です。よく言われることとして、学歴は、どの親に生まれるかである程度決まっているということです。親の学歴が高ければ高いほど、年収も高くなり、子どもの学力も偏差値も高くなります。
 つまり、学歴は本人の能力や努力量を客観的に判断できる絶対的な指標ではなく、親からの遺伝的な要素を多く含んでいるのに、それで本人を評価するのを当たり前としている。それが今の学歴社会だと!
 この批判内容は極めて理にかなっています。しかし、私たちはどうやっても、学歴社会から逃れることはできないのです。
 こう考える理由は二つあります。
 一つ目が、そもそも学歴以上に他人のことを効率よく客観的に判断できる材料が本当にあるのか。ということです。普遍的で、日本どころか世界でも通用する価値判断の一つが「学歴」です。結局、これ以上客観的に人を即座に判断できる便利な価値がないから、現状、「学歴」を使うしかないのです。
 二つ目が、学歴競争があるからこそ、学習意欲が上がったり高みを目指そうとしたりする人が生まれるという因果関係があるためです。東京学芸大学の鈴木雅之(まさゆき)氏は、高校生において偏差値50以上の人たちは学歴競争において競争意識が芽生え、「学習意欲」が上がる傾向にあるということを指摘しています。その点、勉強した「成果としての学歴」が存在しない世界で人々が勉強に意欲を注ぐかというと、そうは思えません。もし学歴がなくなれば、人々は成長を目指さなくなってしまいます。
 これらを踏まえると、私は「学歴」を絶対視する社会は確かに問題ですが、それでも今は、「学歴社会」を続けるべきだと言わざるを得ません。
そもそも学力競争のスタート、これは一般的に、学校教育への参加から始まります。 小学校に入学して、いきなりテストが始まり、自分の学力が「数値化」されます。先生は良い点数を取った子のことを褒め、一緒に喜んでくれる。中学に入れば、成績は5段階評価となり、オール5だと「神様」みたいな扱いをされる。高校・大学は完全に偏差値で階層化された世界。
 こんな成績中心の生活を繰り返すうちに、私達は、「学校は「学力」を身に着ける場で、学力が高い人ほど優等生で、先生に喜んでもらえる場である」と思い込み、より一層学力競争を加熱させていきます。つまり、学校という場に入学した点で、無条件に「学力競争」に参加させられている、これは構造の暴力であるといっても過言ではありません。
 この「学力競争」という場に明確な目的をもって取り組める人は、そこまで問題ではありません。これは、学歴主義という競争を肯定し、勝ち負けが存在するということをわかったうえで競争に参加しているため、たとえ負けてしまっても、それは「正当な勝負の結果」なのです。
 しかし、明確に目的や意味を見いだせないまま、学力競争という勝負の場に強制参加させられている人たちもいます。それは「学力競争の被害者」であるといえるのです。 無意味に学歴に囚わると、必要以上に自分の自信や自己肯定感をなくしてしまうかもしれません。そのせいで、学歴や勉強以外の可能性すらも自らが否定してしまう。そんな社会では絶対にあってはならないんです!

 私の理想とする社会は、「学歴社会の中でも自らの可能性を否定せず、自分を見失わないでいられる社会」です。

 本弁論の目的は、学歴社会は変えられないという前提を踏まえ、学歴社会を生きるうえでの正しい向き合い方を知り、無意味な学歴の呪縛から逃れるための剣を手にする方法を提示することです!
 
 「無意味な学歴の呪縛」についてもう少し具体的に説明します。
学歴社会と聞くと、高偏差値の人や早慶上理国公立に進学する人が学歴社会の勝者であって、低偏差値で周りからFランと揶揄される人たちが敗者のように感じるでしょう。
 例えば、私の友人は勉強する意味を見いだせないまま、ただ無意味に「学歴」というものに縛られながら受験勉強をしました。その結果、高校受験で第一志望校に落ち、偏差値40の高校に入学しました。彼女は、中学の同級生から Fランと揶揄され精神を病みました。その後、彼女はFランに在籍する自分は良い大学に行くことができないと絶望し、学校に行けなくなってしまいました。
 しかし現在、学歴社会に苦しめられているのは、下位層だけではありません。上位層においても敗北者だと感じ苦しんでいる人がいます。
たとえば私は、客観的に見れば、「進学校」と呼ばれる高校を卒業し、「上位層」と呼ばれるような「H大学」に入学しました。
 しかし、学年の半分くらいが国公立を受験し、学年のほぼ全員がGMARCHを受験するような自称進学校で、「GMARCH」以上に入らなければ、学校や友人に見せる顔がない...その大学を志望する目的を見失うくらい、私は無意味に学歴という呪縛に苦しめられていたのです。 これは決して私だけではないでしょう。では、なぜ私たちは「学歴という呪縛」によって苦しめられているのでしょうか? それは、私たちを客観的に評価する材料が「学歴」しかないからこそ、その必要性や学習の意味を問うことなく、ただそれを盲目的に追い求めるしかないからです。
 つまり、上位層はこの大学に入らないと負けになると思い込み、それしか道はないと妄目的に学歴を追い求めてしまうのです。
 一方、下位層においては、そもそも大学に行く意味や学習する意義を見いだせないにもかかわらず、見かけ上の価値にすぎない学歴を追い求めるためにそれに縛られていきます。上位層も下位層も何のために勉強しているのかもわからないまま進んでいくという非常に苦しい道を余儀なくされているのです。
 私たちはペンという、社会で評価される権力を手に入れる為の競争に参加させられています。 そのペンを握ることはできませんし、学歴競争で絶対的勝者になることはできません。加えて、私たちは「学歴」という基準でお互いを殴り合っているのです。もはやペンこそが暴力なのです。
 つまり、上には常に上が存在し、絶対的勝者がいない、勝つことができない競争に無理矢理参加させられている「全員が被害者」という状態なのです。
 では私たちは学歴社会の呪縛の中でどのように生きていけばいいのでしょうか?
 それは、人生の目標の中で自分の学歴を再定義すること、つまり自分の目標を洗い出すことによって自分の学歴に新たな意味を見出すことです。具体例をお示しします。
 私はH(大学名)大学生です。教師になることを目指していた私の第一志望は国立の東京学芸大学でした。私に限らずH大生は、早稲田慶応を目指して落ちた「負け組」で構成されています。「H大学第一志望ゼロ人説」そんな動画がバズった時期もありました。
 でも私が受験した大学の中で、「社会学」を専攻しながら教員を目指せるのはここしかなかった。社会学、とりわけ私の専門である教育社会学の意義は、「教育の世界における格差を克服し、弱者を救済すること。」
 教員になる上で、一番修めなくてはならない学問であったのです。それを極めるためには、H大学「社会学部」に入る必要があり、東京学芸大学「教育学部」では極められない学問でした。ゆえに私の中で、H大学は「負け組」から「教員になるために、学芸大ですら学べなかったことを学べる場所」へと学歴の意味の再定義に成功したことで、H大学を誇れるようになったのです。
 他にも、私は昨年一年間、自主夜間中学校と呼ばれる社会教育施設に、ボランティアとして通いました。ここは、学校での学力競争が嫌で不登校になったり、自信を無くした人たちが集まったりして自分が勉強したいと思ったものを自分のペースで好きなように勉強できるという場所です。自主夜中の生徒たちのほとんどは、学校で学ぶ意義や学歴を身に着ける目的を見いだせず、学歴という呪縛にただひたすらに縛られることで、学校教育という競争の場から、脱却してきた人がほとんどです。
 ここで出会った生徒の中に印象的な生徒がいます。彼女は、ある日私に「自主夜中で勉強が好きになったから、私は将来、学校の先生になりたい」と言いました。
私は、不思議でなりませんでした。教師になるということは、大学進学し、教員採用試験という競争を突破することを意味します。「学歴という呪縛から逃れることで、自己肯定感を取りもどし、将来の夢を見つけるまでに至った」にもかかわらず、なぜ自ら再び学力競争に再び戻ろうとしているのかが。
 それは、彼女が、自分の中で「大学」を「行かなければいけないもの」から、「自分の将来の夢をかなえるために行きたい場所」という意味の変換に成功したからです。教師になるという目標を持ったことでその大学を目指す意味を新たに見出すことができたんです。
 学歴社会を生きる上での目標を見つけるということは、意味を持って学歴を追い求めるということです。自分にとってやりたいこと、目指したいものを明確に捉えることで本人の意欲も上がり、結果的に学力を伸ばすことにも繋がります。目標があることによって学歴社会を生きる上での意味を見いだすことができ、無意味に学歴に呪縛されることに抗うための武器、すなわち剣となります。
 私たちは、ペンを巡った勝者のいない競争に参加させられています。ここから逃れることは出来ません。自分の目標を洗い出すこと、すなわち言語化することこそがこの競争を生き抜くための剣なのです。この剣を手に入れることで学歴でお互いを殴り合う世の中で、自分自身を失わずにいることができるのです。
ご清聴ありがとうございました。


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