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宗教は具体的、体験的でなければ


【宗教は具体的、体験的でなければ】

世界中の眼が、一神教の母体とも言うべきユダヤ教の国にネガティブな形で向けられている今、どんなスタンスで書こうかな、というところで宗教者である私は悩んでおります。

それで、結局、あまり大きなテーマと言うより、専門である浄土真宗で、真摯な救いであったものが自我をイヤなかたちで保護する言い訳になる過程を分析してみようかと思いました。例えとしてドラマのセリフから入ります。

私は木皿泉という脚本家のドラマ作品が好きでよく見ます。彼ら(木皿泉は夫婦ユニットのペンネーム)の出世作の『すいか』というドラマの中におそらく『歎異抄』を意識したであろうセリフがあります。

ドラマの主人公は34歳の銀行勤めの独身OLで、同期の同僚が3億円横領して逃走してしまうというエピソードがストーリーの始めにあります。その主人公に写真週刊誌の記者が接近してきて「逃げた〇〇の写真を持っていれば1枚5万、3枚まとめてなら30万で買い取りますよ。」と言ってくる、というシーンがドラマの中にあります。(ちょっと古いですね。今ならSNS にあげれる動画、になるのでしょうか?)
そして、拒否しながらも名刺を押しつけられてしまい、家に戻ってアルバムを見ようかと思ってしまった時、母親がもうすで写真週刊誌に写真を売っていたのを知って激怒して家を出る、ということになります。
そして、2食まかない付きアパートに引っ越して色んな人に出会っていくというのがストーリーの流れです。
そして、彼女はアパートの先輩住人である漫画家、絆さんと話しているうちにこう言います。

<基子>    本当は私、馬場チャンの写真売るつもりだったんです。 5万って言われた瞬間、すごい、5万売っちゃえって、でも、すぐ答えるのは下品かなってー

<絆>      ……あぁ

<基子>    私、心の中でケーベツしてたの。親の事、馬場チャンの事、何でそんなに、お金みたいなものにコロッていってしまうんだろうてっ。最低だって……、でも、本当は、私が一番お金にコロっといく女だった。-中略- 私が何に腹が立ってたかというと、1万円で売ったからで、本当は5万で売れたものをって。 
-中略-  頭の中、4万の損、4万の損って、グルグルして許せなくって、それって結局私が一番せこいんです。私は皆からケーベツされても文句言えない女なんです。(ジワっと涙が出る)

<絆>     泣くことないじゃん

<基子>   だって、皆んなからケーベツされるんだよ。

<絆>      だから誰もケーベツしないって。皆それぐらいのこと思ってるって

<基子>    いい、気休めはいい

<絆>      本当だって、私だって売るよ、五万って言われたら。

<基子>    本当に?

<絆>       私らは、偉いよ、自分が最低だって知ってるもん。これって、滅茶苦茶ラッキーだよ

<基子>    ………

<絆>      又、同じ事、繰り返すかも知れないけどさ、自分が最低だって泣くのは、きっといい事だよ。
   
いかがでしょうか? 私には絆さんの終わり2つのセリフは『歎異抄』の「悪人正機」と言われる思想を、日常言語に移して体験的に語った言葉に思われます。
彼女が「これって滅茶苦茶ラッキーだよ」というラッキーと表現した部分を人間になさしめるのは、浄土真宗なら「阿弥陀さまの願力」「他力」ということになるのかと、思います。  ドラマは宗教思想を語る場ではないので、単に「ラッキーだよ」と表現されていますが。
木皿さんは仏教本を相当読み込まれているようで、仏教的セリフがシナリオのところどころに出てきます。
なので、私はこれは『歎異抄』を意識したセリフだと理解しました。

そして、こういう「自分は最低だ!」という感情と洞察がドラマのようなシチュエーションで語られる場合、それを持った人に嫌悪感を持つ人はまずいないかと思います。
しかし、こういう自己認識がわざわざ概念化されて宗教思想としての教理になっていったとしたらどうでしょう?
そして、それは真宗教団内部で実際にあります。「悪人正機」が教理として語られると、“それなら、悪人である、と認めれば認めるほど真宗では是とされるのだな”と理解したのか「私はかくのごとき悪人であります!」と自慢げに語りたがる人がまぁまぁいます。
これを真宗内部の一部の人は“卑下慢”と呼んでいます。“高慢”の逆で自分を持ち上げるのではなく落とすことで自分をよくみせようとする屈折した心理のことをいいます。
(これは正式の用語ではないので仏教用語の卑下慢は少し違った意味になります。)

しかし、概念化された宗教思想にはこういうことが得てしてあります。自己発見としての感情をともなっていたものが、自己に適用すると便利な社会的な道具として自我を守るための道具に変質して身につく……というイヤな話です。
そして、こういうことも、身近な日本人の話としては理解できますが、規模が大きく外国文化でもある一神教の内部で起こっていることに適用したりはふつうしないのでしょうが、私にはどうもどこか似ていることのような気がしてならないです。

“未曾有の民族的苦難を信仰をもってして乗り越えた我々は、神の選民である”、という感情が、いつの間にか“神が選民に与えた土地を守るためには、他の民族に苦難を与えることなぞ当たり前である”になる。
こういう変容には長ーい時間と数々の苦難が背景としてあるのでしょうが、どうも集団性自我を守るための言い訳になってしまっている点が似ている気がしてしょーがない。

 宗教はホネの折れる自己洞察を伴った、生モノ、でなくてはならない……とつくづく私は思うのです。


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