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【『言語ゲームの練習問題/言葉を哲学する』を読んで】



【『言語ゲームの練習問題/言葉を哲学する』を読んで】
 ヴィトゲンシュタインって、思想に関心がある人にとってひどく重要だ、と何故か感じていたので何度かチャレンジしましたが、考えがまとまるところまで読める感じなし!……で何度か挫折していました。 

そこで、この本は大学4年生授業用の配布原稿が元、とあったので読んでみることにしました。 橋爪大三郎さんのまとめで練習問題形式にはなっているけど、決して簡単ではなかったです。

 しかし、今回は少し考えがまとまりました! ……面白いですね!「言語ゲーム」。
この言葉と社会と主体に関わってくる概念はすごいなーと感心いたしました。 理解したことで、例を出しますと、例えば人がイスという言葉を理解していることとはどういうことか? それは具体的なものにいつも対応しているのかと言えば、目の前にイスがなくてもイスについて考えることはできる。…では、概念としてのイス(具体的イスの全てに共通する性質を抽出した性質)を弁えてイスと言っているのか?…それも多分違う。便器はイスであるか?ないか?イスとして使うことはできるが、イスではない?…おそらく人はそのものに対する行動を共有していると感じた時、イスが分かったとしている。 それはものにまつわる共通の行動様式の問題であって、物理的定義を厳密にしたら分かるものではなく、機能とそれに対応する行動様式を共有した行為的社会性の問題である、ということになります。 なので単にモノとして理解するだけでなく、「僕は君のためのイスのような存在になりたい。」などという比喩的表現も成り立つ。

 
こう理解すると、モノを示す言葉が社会性と結ばれていきます。そして、私が何かを欲する、…という主体の欲求の言葉も、生まれてしばらく全くの無力であり、親や前の世代との関係としてしかそれを満たせない我々は、社会との結び目である言葉を理解して初めて充分にそれを満たし得る主体になれます。それ以前は至福に満ちていたとしてもモヤ〜とした依存性の高い主体ともなんとも言えぬものです。 ここで言葉と主体性は不可分に結ばれていていて、独立した主体はむしろ社会の産物である、…という理解も成り立ちます。

 途中で橋本さんが、ソシュールの「言語論的転換」という項を設けてその事を説明しようとしています。 文というのは客観世界を記述し、それを命題として論理的破壌なく言いあらわすこと、とソシュール以前はされてきたが、例えば人称詞における主格(私)を使い文を作っているということは、何かの描写ではなく、世界に参加することを意味し、それは参加するという出来事であり何かの描写ではない。「私はあなたを殴る」などの「執行文」は行為者/行為/対象がそれによってハッキリ同時に現れる出来事であり客観の描写ではない、こう考えることが「現代思想」である、と説明しておられます。そして、「ヴィトゲンシュタインが言語ゲームのアイデアで言おうとしたのもこのことだ。」と言っておられます。

 何か面白いですね! バラバラだったものを纏めて、さらに生成中の出来事としての面も表せる「言語ゲーム」というアイデア。 さらに「..ゲーム」という語感から私が連想して、ある意味スポーツのルールのようなものか、…とも思いました。 スポーツのルールというのはそこに参加する人に公正に働き、競技が成り立つことが大前提の価値としてあるので、勝ち逃げを禁ずるルールなどが後から追加されたりします。(例えば柔道で先にポイントを取った者がかかりもしない技を繰り出して時間を稼ぐことが、元々格闘技だったことをかんがみて後に禁止される)
こういう前提となるルールに新しいルールが加えられることもあるが、それは何でもあり…ということではない。皆んなが前提として肯首する原則が見つかれば、そこから改変されえるが、それは無秩序ということではない。 “意味をもつこと” とは社会にとって共有財産的なものを決めることでもある、…ということを読み始めてそんな経たない頃に自分自身で考えました。そして、それは読み進めると「ルール懐疑主義」という章で詳しく取り上げてありました。 「クリプキの懐疑論」というものがあって、数列の規則は一瞬成り立つように見えても、後から例外が出てきて実は別の規則を表していることがある、だから我々は本当の大元としての規則は認識できない、という主張だそうです。 それに橋本さんがヴィトゲンシュタインならこう反論する、と想定したのが、

1)有限の事例の中で、その違いが現れないかぎり、例外と規則はくいちがうことはない

2)だから、同じものとして人々に従われている限り、同じものと考える。

3)将来、例外を含む、規則に分化しうるので不確定ではある、     

ということだそうです。 しかし、人間の社会の法律の改訂などもこういう風に運んでいますよね、実際。 
そして、終章に橋本さんが言語とは何か? のまとめとして、

1 )ひとから聞いたはなしをそのまま伝えられる。だから事柄を共有できる。

2 )言葉もその意味も文法も誰のものでもない。人びとの共有財産である。

3 )モノとしては保存できない、人間がなくなると言語もなくなってしまう。

というまとめ方がしてありました。 
 いや面白いですね。これらの原則をふまえてchat GPT のことを考えたり、仏教の教典の‘意味するところ’などを考えるのは超〜面白いことではないでしょうか?  「
言語ゲーム」の示唆するところは私が理解しただけでも、まだこれだけではないので、来月も又、書こうと思います! 乞うご期待。

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