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60歳から考えはじめたこれからの暮らし【その前に・・・2】

11月から12月になる頃、職場で一人急に辞めることになりました。その人の仕事がほぼほぼ私に回ってきて、講座などもひとりで回すことになったり。
そんな講座に午後から行かなくちゃいけないという12月4日。
ちょうど会場に向かっているときに母の施設から連絡が。。。「11時過ぎにちょっと体調が悪くなったみたいで、意識などはあるけど救急車を呼びたい」とのこと。もちろんお願いしつつ私が駆けつけることはできず、妹に連絡して行ってもらい、私は仕事をすることにしました。
講座終了後片付けをし、病院の場所がよくわからなかったので、タクシーで8時ごろに到着。コロナ禍で夜間の出入り口でちょっと時間がかかりましたが、なんとか妹と母に会えました。
妹に聞くと、救急車で到着した病院では検査をしたけれど原因はわからず、意識もしっかりしていて会話もできていることもあり、そのまま施設に返されたようで、妹も自宅に戻ってきたそうです。
ところが、やっぱりおかしいということになり再度救急車で別の病院にはこばれたということでした。
土曜日ということもあり、「きちんとした病状の説明は月曜日に院長先生からするけど・・・」という前置きはあったものの、膵臓が弱っていて、あまりいい状態ではないとのことでした。
とはいえ、多少辻褄は合わないながらも話はでき、また明日来るね(コロナ禍で本当は面会とかできそうになかったけど)と母は入院し、妹と私は帰ってきました。
妹には一日バタバタさせてしまって悪かったなあと思いつつも、最初の病院の時や施設に戻った時には母と話ができたとのこと。それはそれでよかったかもと思いました。
何か連絡がない限り、勝手に面会にも行かれないし、翌日も講座があったこともあり仕事をして、8時ごろに帰宅。妹に電話をし、病院から連絡がなかったから大丈夫かななんて話し、夕食をとりホッとした9時。妹から電話。
体調が急変したとの連絡。病院に行き、最期をみとることになりました。
看護師さんのお話しだと、普通(ってどこまでが普通かわかりませんが)に会話もしていたのに、9時前に急に意識がなくなったとのこと。まるで私が一息つくのを待ってたように感じ、最期まで母は母でいてくれたなあと思いました。
95歳。なんとなく「やることはやったし、じゃあこれで逝くわね」と旅立っていったような気がし、寂しいし悲しい気持ちはもちろんありましたが、母がこの日のこの時間と決めて逝ったんだと妹とも話しました。
12月5日は、私が60歳の誕生日のちょうどひと月前であり、父のつき命日とも重なります。(勝手に意味づけしているようにも思いますが)計画的だったなあと、確信犯だったんじゃない?と。
10人足らずではありましたが親戚にも参列いただき、コロナ禍にお通夜もお葬式もできよかったと思っています。
とはいえ、休みの中でもちょこちょこ仕事のメール対応はしていましたけどね・・・。
ということで、母の亡くなった後の手続きや、引継ぎなく回ってきた仕事もなんとかしなくちゃと年末ぎりぎりまでバタバタし、あっという間に年明けとなりました。


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