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闘いの終わり

「終わり」を知ると、その次に何もないような気がして怖くなったり、あるいは新たに始まる何かを恐れる気持ちも生まれたりするかもしれない。

闘いは終わった。復讐をしなければならないと心のどこかで思っていたけれど、その必要がないなって思った。あるいは、復讐が終わったのかもしれない。

復讐。怖い言葉だー。

相手に謝らせたいとか、相手に自分の非を認めてほしい、というのが本当のところ。それに復讐という言葉を使うのは大げさかもしれない。

それでも、謝罪をさせたいという思いが強くなると、それはもう復讐を遂げようとしているレベルと同じ。

闘いを終わらせたものは何だったか。
端的に言うと、敵だと思っていたものは、敵ではなかった。だから、復讐の必要がないな、と思ったのだった。あるいは、自分が自分の生き方を偽らず、誰かの悪意に屈することがなかったということがわかった時点で、復讐は終わってるな、とも思った。

念のため、きちんと説明しておくと、本質的に闘いや争いは不要だ。世の中からそういうものが消えるか、というとなかなか難しいけれど、ここで言っているのは、ひとりの人間が生きることの本質は、たぶん闘いではない、はず。
人間だから、悲しみや怒り、憎しみは抱いてしまうけれど、感情が生まれる、あるいは情動として体感することは誰しもあるものだけれど、でも、それを機に他者に何かをしかけることはまた別の話。
己のことは己で終わらせるしかない。つまり、誰かの言動が原因で、深く傷つき、悲しく思ったとしても、そして、その誰かが幸運にも自らの非を認めて謝ってくれることがたまに起こるかもしれないとしても、己の悲しみや怒り、憎しみは、自分でなだめたりするなどして処理していくしかない。他の誰も、直接自分の悲しみに魔法をかけて消してくれたりはしない。


こんなことを言っているけど、私は、今まで基本的に闘う生き方をしてきた。「戦わない」やり方を選んでいた時も、基本的には闘ってきた。

でも、もう終わりだなあと思う。
闘う相手がいなくなったからか。
闘う時代ではなくなったからか。
闘う相手がいないくらい自分が強くなったからか。
たぶん、理由はどれかひとつとは特定できない。おそらく個人的な内面での闘いだったんだろう。闘いモードで生きてると、基本的に敵が現れ続けるんです。どうも、それに飽きちゃって。それが本当のところ。だから、ひとりの人間が生きる上で闘いは不要だということ。スピリチュアル的発想ではない。引き寄せの法則の話でもない。

では、生きることの本質は何かというと、生まれて、何らかの形を与えられて、その生命の生成プロセスそのものを体現し続けて、いずれは朽ち果てていくということ。それだけ。勝ち負けではなく、ただ、生じ、変化し、朽ちていくということ。

うーん、そろそろ引退しようとしてるのかな、私。
そういうわけでもない。
ただ、わかっているのは、誰も他者の魂を脅かすことはできないんだよ、ということだけ。だから、闘いの意味がないということ。

そして、決着をつけない方がいい闘いというものもあるのだ。


※世の中のニュースを見てると、そして社会の中で働いていろんなことを見聞きしてると、実際は「闘わなきゃならない」「闘わざるを得ない」ことが多いかもしれない。であるなら、なおさら、個人的な闘いは けりをつけておきたいところ。

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